根本信夫さん(楢葉町・避難指示解除準備区域)84歳

根本信夫さん

①種:和牛 

②頭数:繁殖牛が20頭、子牛が20頭 

③電気:停電無し。電気使えた。大型発電機あり。) 

④水道:断水無し。水道使えた。非常時用の井戸もあり。水中ポンプ、もあり。清掃時用で年に数回使っていた。

⑤エサ:エサのストックは4月、5月分まで蓄えていた 

⑥当時のエサやり(通った)頻度:定期的に片道3時間近くかけて通っていた 

⑦震災当時の状況把握:「ケータイがつながらなくなった。ラジオを頼りに状況把握をすべきであった。」と。(原発から20km付近) 

⑧放牧:農地は5町歩(自身の田んぼが1町2反歩3端部が4枚)、借りた田んぼが3町歩。電気柵設置経験あり。放牧経験なし。  

⑨牛の移動:2t車あり。 

⑩金言:(インタビュアーの「何でもできるんですね。安心できますね。」に対する言葉)「だってやらざるを得ないんですもん。

「この双葉地方にたとえどんな問題が発生しようと富岡の市場だけは残しておきたかった。」

⑪過程と結果:2011年冬に放浪していた牛64頭を集め、元の牛舎で6軒の農家と共同で飼養管理をしていた。2012年に作業中に倒れ、飼養管理を断念。牛は他の牧場へ移送された。


福島県の畜産連合会の会議に参加後、帰りの144号線の途中で地震にあった根本さん。津波なんてものは全然頭になかったそう。親戚の伝手を頼り、栃木県の旅館に身を寄せながら2年近く避難生活を送った。

谷さん:お名前と年齢を教えてください。

根本 :根本信夫。信夫だ。昭和12年7月29日生まれ84歳だ。この家作ってもう40年経つからね。震災前も震災後もここにいたね。

安久津:庭すごい綺麗ですね

※【コニシ感想】庭の手入れ度合いから根本さんの几帳面さが伝わってくる。きっとお家の中も整理整頓されているのだろう。自分の祖父と重なって見えた。

(画像:自身の所有する庭について説明する根本さん。)

根本 :自分好みで手入れしてるんだね刈込は自分でやってね毎年ね。

谷さん:何でやっているんですか?

根本 :機械のバリカンでねやってるんだね。やる気さえあれば職人なんていらないですよ。ただ松の木は職人さまだね。痛んじゃうから自分ではできないね。

谷さん:土地はどのくらい持っていたんですか?

根本 :田んぼは一丁2たんぶくらいあったんだけど、ほとんど牧草作ったり、遠藤豆自家飼料も作っていたね。

安久津:一丁2たんぶってどのくらいなんですか?

(画像:身振り手振りで藁について伝える根本さん。)

根本 :えっと1丁が1ha(100×100)でしょ。それが100×120mくらいかな。普通は3たんぶくらい。刈り取るのも機械で自分でやってましたね。結構お金かかりましたね。当時のことを振り返るとざわざわする。自給自足って日本でできてる人ってすごい少ないべ。大体海外から輸入してきてって感じだべ。時期によっては輸入コンテナそっくり10tくらいかな。大型トレーラーで積んできて。 まだ借りているやつもあって3ちょうぶくらい借りていたかな。全部で5ちょうぶはありましたね。だから大変だよ。天気の悪い時には全部しないといけないし。

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根本 :時給自足が基本だけど、たまに輸入していたね。堆肥も散布して、餌は質的にも量的にも良いもの取れたよ。年に3回から4回はかけたんじゃないの。そしてサイホンにして保存していましたね。大きいビニールの袋持ってきて、藁をうまく積んで中で縛って、包んで口を掃除機で抜いて真空状態にして縛るんですよ。長方形にして完全乾燥を目的にしてやったんだね。やっぱりトラクターで三回転して完全乾燥をして。やっぱり1人でできないから5人組で仲間借りて、片っぽから運ぶ、包む。それでちょうど雨が降るんだね。乾燥して仕上がったなって時に。

(画像:藁の保存方法について事細かに説明してくださる根本さん。)

谷さん:牛はどのくらいいたんですか?

根本 :牛は繁殖が35頭50目標だったけどいがなかったな。肉牛は200ぐらいいだったな。 一番大きい時は300はいたよ。そこの山に夫治郎っていう牧野があって、自分で作ったんだけど、そこの部落の3人に雇用もして管理してもらっていたよ。10何年はしていたかな。んで夫治郎を閉鎖して下に下がってきて繁殖だけに切り替えたんだね。夏も冬も朝4:30に出かけで牛に餌をやって、帰ってきてから朝ごはんだった。そういうパターンが何年も続いたな。妻も一緒にやったね。震災の時には肉牛辞めちゃってな。なんだか体弱くなって。繁殖牛も20くらいに減らしたんだね。子牛も20くらいかな。

谷さん:合わせて40ってこと?

※【コニシ感想】減らしても40。凄まじい。

(画像:インタビュー途中、夫治郎で牛を管理していた過去を明かす場面も。)

根本 :んだな。畜産組合では双葉牛ってことで販売していたこともあったな。双葉牛は販売業者から評判良くなかったからいつの間にか双葉牛って呼び名はなくなったけども、双葉の子牛として販売していたな。組合で大事にしていた事は、粗飼料を十分にあげてね丈夫な体を作れと。農耕資料は与えるなとそれが1番の指導でしたな。見た目がいいんだな。艶も良いですし。農耕飼料だと最後に餌を食べなくなるんですわ。まずは丈夫な胃袋を作って、仕上げをよくする基礎作りだべな。

安久津:いつから組合長されているんですか?

根本 :震災の時には73歳くらいだ。その前だ。3期くらいはやったな。来月(2020.10)には解散総会やっから震災後10年だもんな。

安久津:一期って1年ですか?

根本 :いやいや3年だ。だから震災前は9年はやったな。通算は5期くらいはやってるな。

※【コニシ感想】通算15年にもわたり組合長を務めあげた根本さん。さらっと言っているが恐ろしい。

谷さん:双葉畜産組合は何人くらいいたんですか?

根本 :震災当時は300人くらいはいだな。頭数で言うと、1人3、4、5頭だから、2000頭くらいは管理していたな。そのうちの半分の1000頭は安楽死させられたんだなと記憶しているな。20km圏内に。広野も畜産組合圏内だったけど辞めた人が多かったな。と言うのも双葉の市場が閉鎖して開催できなくなったからだな。一番多い時期は確たる数字ではないけども、楢葉町でも組合数が400くらいはいたな。楢葉町だけですよ。本当だよ。富岡の市場は2日間やって1000頭強の子牛が市場に上場されたんだから。年間6回開催されますから、年間で12000頭くらいは売ったんだな。

※【コニシ感想】畜舎に残る家畜が餓死するのに任せることに対する問題意識、そして放し飼いになった家畜の野生化に対する問題意識が募り、家畜の安楽死処分が実施された。

谷さん:富岡の市場ってすごい大きかったんですね。

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根本 :最善期にはね。売り上げの五分五分くらいでやっていたね、昭和の中期くらいの話だよ。大昔だよ。

谷さん:この地域で牛が広く飼われるようになったのは、昔一家に一匹農耕牛として飼っていたのもあると思いますが、きっかけとかあるんですか?

根本 :きっかけというよりはむしろ時代の流れだな。双葉実況の耕作の歴史が120年くらいはあるから、当時は農耕馬を中心としてやっていて、戦争中は軍馬の産地だったでしょ。だんだん牛も飼うようになって結局金になるのは牛の方なんだよな。馬から牛にどんどん変わってった時代、昭和30年くらい。その頃俺は家畜商だったから。自分で一頭も飼ってはいなかったけれど、買っては売っての繰り返しで東京の芝浦市場に出荷して、芝浦市場は当時は東洋一位だったからね。俺は肉屋で小僧をしていたんだよ。中卒で高校にはチャレンジしたんだけど合格はしないで、恥ずかしい話なんだけども、さあどうすっぺって事で親と兄貴らのコネで東京の肉屋に小僧として、今だったら修行とか就職だべな、当時は小僧だわい。1ヶ月500円の給料だもの。行った先の肉屋は、芝浦に出荷する大きな問屋だったの。毎日、枝肉しにした牛を担いだり冷蔵に入れたり出したり骨脱いだり、そういう仕事、そしてハムの原料の卸問屋だったから、あの頃は食生活が改善されてそういう時代。

※【コニシ感想】根本さんの鮮明すぎる記憶に思わず凄みを感じた。正確な年号把握力、流暢な語り口。直接お会いしてお話を聞いてみたいと強く思った。

1936年12月(昭和11年):芝浦に東京市営のと場と家畜市場が建設

1938年12月(昭和13年):東京市直営による「と畜業務」が開始

1953年8月(昭和28年):屠場法は、と畜場法に改正施行。芝浦と場に枝肉取引所が設置。

1966年12月(昭和41年):東京都中央卸売市場食肉市場が開場し、業務が開始。と畜解体作業は、内臓業者の協力を得て行われた。

1973年4月(昭和48年):食肉市場総合ビルが完成し、業務が開始。

谷さん:捌いていたんですか?

(画像:牛、馬、豚…と捌くことのできる根本さん。常人の成せる業ではない。)

根本 :牛、馬、豚全部、今のスーパーの肉全部俺が骨抜いて、捌いていたんだよ。農家に家畜を買い求めて途上に行ってと殺をしてもらって皮をむいて持ち帰って冷蔵庫に入れてぶら下げて、全部骨抜いてだから俺の手は傷だらけだよ。今もできるけど、できるなんてもんじゃないよ(笑)牛が死ぬと、その場で売り物にするかしないかは別として、『根本さん牛死んだ』って随分やったな。俺んところに持ってきたり、皮むいていた肉にして。ただの家畜商じゃなくて食肉屋もだ。2年間東京の恵比寿の問屋にいて、富岡に帰ってきて家畜商をやったんだね。当時はよそのあぜ道の草なんか刈ったら怒られるんですから。草が足りなかったんですから。なのに今は逆に草刈れなんつってね。刈って捨てる時代でしょ。家畜商を始めたのは18歳だから、まずは売買が目的だったね。昭和36年に肉屋を開業して、根元精肉店として家畜商をしながら。そして牛を売買じゃなくて牛を飼うようになったのは、昭和50年頃からかな。そこから根元ストアになった。一般食品から何から。

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当時、藁に何百万ってかけたね。1反歩藁をかき集めるのに1人1万円くらいは払ってたね。藁を集めて包んでトラックに山のように積んで古屋に運んで。

もうね夢のようだ。大変ってもんじゃない。その中でも藁上げが大変だね。

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谷さん:その当時大変だったことは藁の作業ってことがわかりました。ではその当時幸せだったことは何ですか?

根本 :幸せ?笑東京に行って牛馬積んで終わった時が一番幸せだったな。終わって帰ってきた時。仕事以外何もなかったもん。おいらの青春時代って何だったかなと思って考えてみるとまず色々お付き合い、例えばゴルフ行ったことないダンスやったことない囲碁将棋その後今度いろいろさ役職がつくんだって、今度はスーパーの親方になって商工会の会長もやったそういうことになっとダンスだゴルフだそれに一番困ったな。会長ダンスやってなんて役員の研修旅行とかよー。あるいは商工会主催のお客様に抽選なんかやってそして招待旅行なんかやるでしょう。町民が行く会長ダンスやっていたなんて引っ張り出されいや俺やったことないもん一番困ったな。

(画像:自身の青春時代を語る根本さん。)

谷さん:それは一番困りますね引っ張り出されるくらい人気だったんですね

根本 :いやできなかったし経験なかったし。

谷さん:ダンスとかできます?安久津さん

安久津:いや僕もできないですね

根本 :ゴルフのクラブなって一回も握ったことないもん

安久津:僕もゴルフないですね打ちっ放しはありますけどちゃんとしたフィールドのものはないですね。

根本 :初日は会議次の日はゴルフなんてなるんだな。ひまわりチェーンってのがもっとあったんだよね。ブイチェーンで合併する前にひまわりチェーンの代表やってる時に石川県の金沢だったから本家は。それでいわき地区の代表で飛行機で小松空港まで行ったな何回も。そうすると必ずゴルフだ 。

谷さん:なんだろう根本さんが OK な役職重要なポジションについておられるからこそそういう風に引っ張り出されるわけですよね。

根本 :いやまぁ当然な。恒例の行事になってんじゃないの。やっぱりおいらも考えたなあ。人間は上に立たなくちゃいけないとダメだなって。 結局会社のあれで旅館に泊まって明日ゴルフやるんかなんだか会社のつけでしょう。そういうこと見て世の中ってこういうシステムになってんだなーって思ってしみじみ自分で実感して感じるになったなあ。

谷さん:会社の経費でするわけですもんね交際費みたいなもので。

(画像:大手スーパーマーケットの代表を務めた経験を明かす根本さん。)

根本 :そうだね。商工会の会長とそうだよな年に何回か会議か 一泊かそこらかして温泉旅館に泊まって美味しいもん食ってよ。カラオケとか行ったかわかんないけどそん中で町の復興をどうするかっていう話は出るにしてもやっぱり交流の場だもん。だから俺も商工会の会長2期やってもうやめたわ。なんだって3年めはって話出たけど自ら辞めるはって辞めたわ。商工会はなんぞやっていうことが分かったからやめたは。今の Vチェーンにしたのは福島県にある我々のひまわりチェーン福島県で一番大きなのがサンマートチェーンあと福島を中心としたフラワーチェーン三つのスーパーの組織があってな。その時俺はひまわりの代表だったから。いやもちろん持ちかけたのは別にあれだったかもしんないけど結局それを一つにしてまとめてVチェーンを作ったのがこれがひまわりの代表やってた時だったから。そして郡山に行って郡山のVチェーンに決めたのが2期目かな。郡山の代表やったのが郡山に籍を置いたことあったよ。

※【コニシ感想】終始、根本さんの精通する業界の広さに啞然。きっと人柄あってのことだろう。様々な事業に携わってこられた超人。

谷さん:すごい幅広いですね双葉郡だけじゃないんですね。

根本 :じゃない。郡山には一週間に3回は行ったかな。全部にぱっぱ出たよ高速なかったから。そして疲れ果ててやめたは。

谷さん:私もあの道すごい大変だと思いますいわきだからいわきからだったらまだ平らだからいいんですけど 288 は本当大変ですよね。でもほんと凄いですよね根本さんって言わないと話さないけどすごい方ですね

根本 :いやいやいや。

谷さん:震災前はここいて、震災当時はどこにいたんですか?

根本 :原発の事故があった時はね、その時にはね、たまたま福島県の畜連(畜産連合会)の会議があって、帰りの144号線の途中で地震にあった

谷さん:車ではあんまり感じなかったんですか。

(画像:震災当時自分が何をしていたのかを語る様子は考えさせられるものがあった。)

根本 :いやいやパンクしそうになった。そして36号線にきたらすでに交通止め。崖崩れやら土砂崩れで。6号線きたら渋滞で。そして浪江から楢葉に繋いでいる浜街道ならどうかなって一時考えたの。だけど曲がりくねってるからどうかなって考えて戻ったの。当時は津波っていう頭は全く全然なかったの。もう全然。あれが、間違って浜街道に行ってたら行方不明だな。

※【コニシ感想】当時の行動をここまで鮮明に話せるほど、東日本大震災の残した爪痕が深かったのかと改めて感じた。きっとあの時の情景は今もなお、悪夢のように彼らを苦しめているのだろう。

谷さん:本当に思い出せなくて良かったですね。

根本 :そこで戻ったのよ結局ね。津波なんてものは全然頭になかったから。あん時にラジオ聞くとか、 だからケータイもつながらないし、ラジオだね。そして36に戻って田んぼ道行って、3時間もかかった。普通は30分もかからないでしょう。ほうてきてみたら、家の屋根と周りの囲いも門も全部崩れちゃって。道路歩けないくらいになって。そして次の日、組合どうなったかなって思って役員から電話かかってくるし組合を見に行ったの。夜の森の市場に。そして爆発して避難しろってなって、家に帰ったら誰もいね。前の日はみんなで家にいたの。店に行っても鍵がかかってるから誰もいないし。俺車で運転していたから避難命令もわかんなかった。さあ困っちゃった。何がどうなってるのかわげわかんね。役場に行ったら避難しろってことわかって、家族もどこにいるんだかわがんねんだよ。避難場所の楢葉の小学校に行って見たら、人人人でどこにいるのかもわがんね。アナウンスしてもらったら、たまたまうちの嫁の姉さんがいて、来て、「娘の友達がハワイアンズにいるから、そこの近くの旅館に行った」って言われて友達を頼ってそこにいるっていうことを初めて知ったんだよ次の日。とりあえず今日は原発爆発してここら辺危ないから夫治郎の友達のところに言って泊まって、やっと次の日に行って家族にあって面会して、ほっとした矢先に夜叩き起こされて、そして何だべって思ったら旅館の旦那がここも危ないから栃木県に友達がいるからそこにいくべってなって夜中雪道を運転して犬から猫から連れて行った。ガソリンはあった。当時ランドクルーザーに乗ってたから良かった。それで、栃木県の烏山っていう所に行って、嫁の妹がかわじ温泉の旅館で働いていたからそこに行って、鬼怒川の奥、どこも観光客の客なんていなかったから一部屋ずつもらったの。そこに2年近くいたの。避難生活を。そんで友達も呼んで。

(画像:家の屋根や周りの囲い、門などが崩壊したという。)

谷さん:それからいわきに引っ越して、何年ぐらいに引っ越したか覚えてますか?

根本 :そうだなあ覚えてね。当たり前だけど、いくら嫁の妹が働いたって旅館代がかかりますから、払えないんですよ。そこで、厨房に集まって一泊1人2000円に決まったんですけど、ところが、孫から何やら10人いだから、1日2万円もかかるんですよ。30日いたら60万だべ。これはとてもじゃないけど払えねーべって。孫にお前らだせっても言えねべがら、そうこうしている内に、旅館の寮があったの。その寮に移って家賃になったわけ。そしたら国から補助が出るようになって、他に40人はいたけど、旅館にとって見たら良い収入になったのよ。後から大変喜んじゃってね。

(画像:孫などを含めると10人ほどで旅館に身を寄せていたという。)

谷さん:他の旅館も大変だと思いますよね

根本 :どこの部屋も真っ暗だったね。鬼怒川辺りの大きな旅館だってなんだって。それで、店になんかは品物置きっぱなしでしょ。全部生鮮食品の運びがたやったもん俺。トラックとランクルで山ほど椅子を全部倒してさ、山ほど積んだね。みんなでステーキ食ってね、避難してこんな贅沢な生活してて良いのかなんて言ってね(笑)。

谷さん:泥棒とか入れませんでしたか?

根本 :入らっちゃ。でも商品は残ってた。2回くらいあったんじゃないのかな。食料品だね。窓ガラス割ったり。

谷さん:お金を取られたってことですか?

根本 :いや食料品。

※【コニシ感想】泥棒側もよく考えている。お金があってもどうしようもないから、食料品だけを盗っていったのだろうか。まさか闇市で売ったなんてことは…

谷さん:ほんと火事場泥棒ですよねそういうのって酷いですよね。

谷さん:家は大丈夫だったんですか

根本 :屋根だけね。

谷さん:本当頑丈な家だったんですね。

根本 :だと思うよ。これ最後サッシ周りだけ全部交換したんだね。これ40年前までにはサッシにしたけども1枚やったでしょ。今は2重サッシになってるな。3重サッシにしたんだけど、家が傾いてるかどうとか全部測ってもらったら何も問題ないという風に全部機械でみたらば、安心してサッシだけ交換した。

谷さん:その当時牛関係の情報とか連絡とかはどうしたんですか?

根本 :いやーそれが一番困りましたはっきり言うと。というのはかわじ温泉に避難した時から各支部やら役員仲間から夜、夜中から電話きて、何組合長やってんだとというようなことで役員と喧嘩だ。組合長の動きがわかんないとかね。職員は何やってんだと職員は職員で今の畜連本部の方に仮事務所あれして、ところが牛の処分が何やらで県庁にも行きましたよ。んで、まだ忘れない当時の畜産家長の鈴木さんっていう方だったんだけども、そのかたとテーブル叩きながら、どうのこうの組合員の方からかちゃかちゃ責められる、支部の会議があるってことで支部の方からあっちこっち来てくれっていろんなところ行ったね。ところが県に言っても鈴木課長なる者が何もわがんねんだがら。国からこういう指示が出たとか、あるいはこういう方向で進むっていうことが課長であろうと。

谷さん:ですから3月12日以降はとりあえずちょっとそういう夜の森の方のどうしようもない状態であっちに避難してから電話でじゃんじゃん連絡が入るようになったってことですかね。

根本 :そういうこと

谷さん:携帯電話持ってたんですね?

根本 :携帯電話は通じるになったから。当時ある高速道路も通行止めで走ってる時はパトカーと自衛隊避難物資運んでる関連の車、だから料金所に管理人も何もいなかったから。いなかったの。だから防護柵をどけて高速道路を走りました。あっちの支部こっちの支部呼び出されて。

谷さん:それはいつぐらいですか?

根本 :震災後から10日か20日ぐらい経ってからぐらいの騒ぎだったんじゃないかな。

谷さん:4月22日に一か月10日過ぎてから警戒区域が設定されて楢葉が入れなくなったと思うんですけどその前にいろんなやりとりがされたってことですか

根本 :そうだね思い出したわ。そしたらあっちの方からボランティアの方が来て、餌を運んできたのいや名前忘れちゃったなー

谷さん:岡田さんとかですか

(画像:

根本 :岡田さんはその後だったなぁ。警戒区域に入るについても牛の餌は積んだやつから何してもうつし変えて、そして俺のランクの中にシート被ってよ、そしてボランティアの人たちが俺の牛小屋にきたりなんかしたりとかしてくれましたね。 

谷さん:私根本さんに連れてってもらった時に、草でボーボーになった農地を見てこの草を牛が食ってくれれば良いんだけどなって言ったんですね。それで私、牛に草を食べさせるのを初めて思いついたんですよ。それまでは輸入した飼料をあげなきゃいけないもんだと思っていたんですけども、根本さんは、昔からあぜ道の草を牛が食べるのをご存知だったから私も知りました。根本さんの所の牛舎は10月ぐらいやったかな牛が離れてましたよね猫さんも一緒にその牛を入れるっていうふうなことをしたんですか岡田さんと一緒に根本さんは牛を生かすために運ばれる事を餌とかやってたと思うんですけど確か青木さんという農家さんと誰か4、5人のグループで楢葉さんのお友達一緒にえさるとかすると思うんですけどそこら辺をもう少し教えていただいてもよろしいですか?水って出ましたか?

根本 :だから当時は栃木の河内から通ったんだね。毎日ではないけれどその代わり牛を運動場に離しちゃって小屋からね牛をぐっと、さっき言った通り頭数を減らしたから餌はいっぱいあったのよ乾燥とわらとかいっぱいあったのだから今度その牛がね餌を求めてきて20くらいに減らしちゃっていたところに70何頭と牛が集まってきたんだよ。餌を求めてそんで次に餌の確保をしなきゃいけないってことで栃木の那須から川治温泉行くために通ったからそのうち乳牛が那須あたりでは汚染草は乳牛に与えられないっていうことで方法なくて困ってたそれを情報キャッチしたから、ほんで那須からもらって運んだの大型トラックでチャーターして。そうしている間に支部の問題から何からよくよく過労だったんだな。そして青木さんと同級生なんだよね。そしているうちに大きなロールを片付けてるうちに俺が倒れちゃったの。そして青木さんが、ローラーの陰にいて俺の姿見えねえからって、見たらば俺倒れちゃって意識不明よ。そして青木さんに抱かれてしっかりしろって声が聞こえるようになって、なんだべなって思って目を覚ましてみたら倒れちゃったのよ。

※【コニシ感想】間違いなく「過労」である。だが、震災直後は動かないほうが苦痛だったのであろう。牛への愛、牛飼いとしての使命感がひしひしと伝わってくる。

谷さん:作業中に倒れちゃったんですね。相当遠い距離通ったんですねそれは大変ですね。どれくらい車でかかってたんですか?広野インターで降りて。

根本 :2時間よりももっと遠いじゃねえか3時間ぐらいはかかったな。

谷さん:結構きついですよねそれは遠いですし

根本 :それから半月ぐらいは入院してたのかな。

谷さん:どこに入院したんですか

根本 :いわき

谷さん:その前までは岡田さんと青木さんと一緒にどれくらい前まで牛に餌をやったりとかされたんですか

根本 :その間ねたまたま避難しないでそこにいたまま付き合いはあるんだけども、忙しい時に手伝ってもらった男がいたのよ。ここら辺で二回り一回りぐらい若いやつかな。前田って奴がいるんだけども。それか電気止まっちゃって家で生活できなくなったから、来てみたらいんだ牛小屋に。前田ってやつが。何だお前ってつったら、いやいや電気つかなくて洗濯機回しながら家の牛小屋で生活しったんだった。(笑)いやあんときは笑ったなぁ。お前も頭良いなって。そしてそれから牛に3日にいっぺんずつ餌をくれることになって。牛小屋電気あったの。なんでか分かんないけど。あそこにスーパーあるでしょう。あれの道路の反対側は電気つかなかったの。道路挟んで右側は電気ついたの。だからここも電気はついてたんだよ。電気は通ってたの。だから道路のこっちとそっちので全然違ったの。

谷さん:水ってどうだったんですか?

根本 :水は井戸だったから井戸掘って電気止まんなかったから良かったのよ。電気の自家給水器、電気のポンプあるでしょう。それで利用してたからそこは何も問題なかったんだよ。今、話前後するけども倒れちゃってから方法なくなって俺がいない後で他から来た70 頭くらいの牛を、浪江の希望の牧場あそこに運んだらしい。俺いなかったから倒れて入院して。俺の4 t車で運んだんだよ。

※【コニシ感想】井戸の偉大さには頭が上がらない。自分も高校生のとき一か月ほどアフリカに滞在したのだが、ライフラインは無かったため、井戸で水汲んだなあ。とてもきつかった。たかが一か月だが。

谷さん:運ばれる時は意識あったんですか

根本 :意識あったその時は。気が付いて自分で救急車に電話したんだよ。

谷さん:原因は過労だったんですね

根本 :だと思うよあらゆる検査して何も異常なかったから。

谷さん:メニエール病って長澤さんが言ってた気がするんですけど

根本 :なんだかわかんない

谷さん:そんなに遠くから通われてたら相当疲れていたのと思います。

根本 :もしあれが運転中だったらもう決まりだったな。たまたま餌やりだったから。

谷さん:それは何月ぐらいでしたっけ?冬ぐらいでしたっけ

根本 :乾燥草運んでたから何月くらいか忘れたは。

谷さん:那須から運んでたのはロールを切ってその中の藁を運んだんですよね 。相当重労働ですよね

根本 :んだからバックホーンあったからねバックホーンで釣って、そうやってた矢先に

谷さん:根本さん重機も運転できるんですか

根本 :あそこに重機入ってんだ。もちろん大型免許持ってるからトラックもなんでも。

谷さん:すごいですねなんでもできるんですね。

根本 :あとはプロ中のプロだったは堆肥出しのローラーとかはホイールローダーとか。あれはプロ中のプロだった。全部堆肥だしは自分でやってたから。

※【コニシ感想】自分をプロ中のプロと言えるようになるには相当の経験、歳月が必要だ。自分の仕事に誇りを持つ根本さんはカッコイイ。

谷さん:すいませんちょっと脱線するんですけど堆肥には何を入れて行ってたんですか

根本 :籾殻と後はおがくずとを半々ぐらいにして。籾殻はもらったんだけどもおがくずは年間なんぼ払ったのかな。おかくずは買いましたよ 。当時はちん引きも盛んにやってたところだから、おがくずたまる頃だなって思うと電話かかってきてさ。おかくずに潜って行って、掻き分けて、吹上げてきて仕事になんねー怒らっちぇよ、2 T ダンプでね。

谷さん:トラック一台でどのくらいだったんですか

根本 :年間で20万円ぐらい払ったんじゃないかな。やっぱりあの頃は畜産が盛んだったからね。この地域も奪い合うくらい。

谷さん:他の農家さん達も堆肥作って自分で畑やったりとかしてたんですか?

根本 :うんそれは当然だわな。 後から途中から発酵剤買ってさ堆肥出す前にじょうろに撹拌したやつをじょうろに入れて全部ずっとかき混ぜるとすぐ発酵するんだよね。 

谷さん:トラック一台でだいたい田んぼ何枚ぶんぐらいになるんですか

根本 :あれだけの量だから3たんぶに1台くらい入れたな。だからさっき言ったとおり、人よりも3倍か4倍ぐらい牧草の伸びが良くて

谷さん:そうなんですねそういう循環のサイクルが地元のお米農家さんと出来てたってことですね。そのつながりっていうの地元の所で活動したら自然にできてたってことですか

根本 :やっぱり口コミでね。

根本 :それは俺いなかったからなあ。ただ暴走して山の方まで行っちゃった牛もいたみたいだな。だけどやっぱり餌が欲しいから次の日あたり集まってくるんじゃないの。牛ってそういう習性があるからね。

谷さん:ちなみに発電機ってお持ちでしたか?

根本 :あったけども別に使わなかったな。 あの電気溶接やら何やら全部自分でやったからね。まわし井戸とか建屋とか全部自分でやったからね。最初はねばんなくてな。全部自分でやりました。未だに堆肥小屋は立派なもんですよ。 孫を使いながら建屋の堆肥を今は(あしがさん)っていう人が牛小屋にしておいてるけども、あれも全部自分で鉄骨を組んで溶接してコンクリートで包んで孫のこと使いながらそっちとこっちでネジを締めてやりましたよ。だから発電機から何からすべて揃ってたから。

谷さん:何でもできるんですね。安心できますね。

根本 :だってやらざるを得ないんですもん。壊れたり牛が来たり修理しなくちゃなんない。新しく拡張していくには職人を頼んでやっていくにはとてもじゃないけど。

谷さん:震災前に色々買ってってやってたってわけですね。200 V ですか

根本 :そうじゃないかな?大きいから。

谷さん:川から水を引き上げるポンプとか思ってたんですか

根本 :それは水中ポンプから井戸も年に何回かはな。あのー違う清掃しなくちゃなんないからな。水中ポンプで。

谷さん:最後に、あの時こういうものやこういうことがあればよかったっていうものはありますか?(中略)

根本 :あのね最後にいっていう話だからあれだけども、視点が若干違うんだけどもまずあの、組合員の人に牛を預かってる組合長という立場から物申すと、非常にこの双葉地方にたとえどんな問題が発生しようと富岡の市場だけは残しておきたかった。ていうことはやっぱり地域の農家特に最近はあぶり返してきたけど当時10年前の事を振り返ってみれば米の価格だってなんだってどんどん落ち込む一方だったでしょう。本当に畜産くらいだったんだよね主に農家の収入源つうのは。だからそういうことから考えれば、この特に双葉地方浜通り地区にはたとえどんな問題が発生しようと一箇所富岡の夜の森市場だけは残したかったと。それは畜産の振興のためにも必要だし、あるいはまた地域経済のためにもこの畜産農家っていうものは絶やすことはできないと。そのために話は若干長くなるけども田村畜きょうの解散宣言した時に双葉畜きょうの我々が田村蓄きょうの組合の畜産農家を無差別に争奪戦に持ってって組合の獲得をしたわけだ。なりふり構わず。手土産持って俺が行って無差別にあそこに牛小屋あると言って牛いるなと思ったらそこに手土産持ってって本当はやっちゃならないことなんだよね。だけども双葉の畜産が存続するためには保有頭数の母体のあれを自ら進んで夜9時10時まで農家回っておかげさまで JA と喧嘩して、組合を獲得したのが双葉畜きょうが数値的にも超えたんですから。夜まで頑張りました。吹雪の時でね。そういう時も先が見えないくらいの時も訪問して。だからその一年で持って行ってきて結果的には原発事故によってね我々の力ではどうにもならなかっただったけども、ただ残念なことはこの原発事故さえなければ双葉畜きょうは存続できたと思う。たとえ津波が発生しようとなにしようと。あくまでもこの双葉畜きょうだけはここにということは本宮まで運ばなくちゃいけない距離的にも時間的にもあるいはまた長期間雪なんか降るときなんかにはまた大変でしょう畜産農家は。そういうの考えた時に昔はあった。いわきにもあったし相馬にもあったよ市場。我々が家畜商18の時にスタートした時には。各市町村上場頭数が少ないにしても市場はあったわけですから。それが元宮と双葉だけになっちゃった。後は当時石川、今は解散して止めちゃったけど。石川と双葉と田村畜きょうだけだった。田村畜きょうは先に解散しちゃった。石川と双葉だけが残ってた。だから双葉だけはどんなことがあっても自ら自分から進んでもやりたかったな。それが残念だ。だから原発事故さえなければ本当にあの色々な場面で品種の改良やら新地から新品を買い込んで品種の改良してよしとなって若い僧が動き始めたんだから。後継者もいて。だからそれを考えた時に本当に残念だな。だから原発事故さえなければまだむしろ質、量ともに双葉畜きょうは存続できたと思う。それだけ。

谷さん:それだけ頑張って組合を獲得しながら広げてきた守ってきた畜きょうだったですね。

根本 :だから俺が組合を預かるようになってからね、各支部から上がってきた役員に対してはっきり言ったことは皆さんが報酬やら日当が欲しくて来てるわけじゃあるまいと。あくまでもこの双葉畜きょうを再建したいあるいはまた軌道にのせたいそういう根付いに基づいてきてんだっぺ。したがってその当時赤字だったから頭数も少なくてだから役員の報酬は50%減額したんだから。半分に反対もありました。だけども我々はこうしてやろうとしてそういう時皆さんだと思って信じてんだならお願いしたいってことで50%減額にしたんだもん。それでやっと黒字に転じて頭数も増えた。そして4月の市場に開催される各々やっぱり最大限努力をして4月12日の市場目の前にして俺もそうだったからそういう時期だった。子牛系統的にもね良い牛を何頭か揃えている時に3月12日のあれだ。あと一か月だった。だからそれだけだな残念なのは。だって双葉郡楢葉町だってさ年間にすっと2億ぐらいの売上が町に落ちるか落ちないかとそうなってくると町の全体的な経済効果っていうものは大きなものがあったと思うよ。それがゼロになっちゃったっていうのよ。だから決して原発の悪口か何かで言うことじゃないけれども生活していく上においてで電気がねなくならないわけだからそれにしても何らかの方法があったわけじゃないかと思うけどもそんなことを論じてもどうにもならないから。ただ残念だなあと思う一言に尽きる。

谷さん:ほんと畜産組合の組合長としてご苦労されてきたからこその無念さとかそういうのが伝わってきます。他の農家さんたちとは違うと思いますし、会長としての想いってのが。

根本 :来月11日(2020/11/11)には解散総会をして全てゼロになりましたから今。ていうことは一円たりとも組合員に残しておいたら解散できないわけですから。全部配当も済みました。120年の歴史が終わりました。そういうことを考えるとね確かに先人たちが作り上げてきたこの一つの歴史っていうのかな文化が我々が預かっている最中に結果としてそういうことになったっていうことに対してだけどもこれは避けて通れないんだよな。致し方ない。だけでもやっぱりはっきり言うと2000円に対して7000いくらかの配当金を出すことはできたからね。一株2000円なわけだから。1頭出すことに2000円ずつ増資増資で持ってって、 だからその1株に対してもちろん原発の賠償金があったからできたことだけどもその2000円の出資金に対して7000なんぼの配当金出せましたから。全て経費の削減をして最大限の努力をしてだから組合員から言わせればまあ組合に対しての不足というのかな苦情というものはほとんどゼロに等しいと思っている俺はな。そんなこと言ってもね始まらないことだけど今更。俺も83という年齢になっちゃったからな。

谷さん:根本さんは声が伸びやかで電話で話しても元気であの当時からあの当時からいらっしゃって今の年齢ってのがあんまりあれですけど、でも震災前のあの明るくて伸びやかだった時の声遠くから通って避難先とかからも遠くからでっていうのは今初めて知って、なんかあのそうだったんだなと思いました。よくあんな時岡田さんとかいろんな人そんな遠くから通って牛を生かせていたなあと思いました。

(画像:家畜商で組合になったのは根本さんが最初で最後だという。)

根本 :ふたば畜きょうとは18の頃からの長いお付き合いバクロの道に入って二十歳頃かなどこの組合長が誰だったか忘れたけど あの当時は口づけだったからね。今はボタンを押して最後に高い人に落札コンピューターであれするでしょう。その頃は口付だったの。一段高いところに立って今でも魚市場とか八百屋市場でやってるでしょう。せりでやってるでしょう。あれを根元お前がやってみろ二十歳頃だったと思うよ。そうして簡単だと思って始まったはいいけど何の経験もなくてホッとたってやったからあちゃこちゃになっちゃってさ、そうてできないってなっちゃったの。それでだんから降ろされてさ、さあ次の日から車運転しながら練習してで次のあれには立派にこなしたんだよね。本当やっぱりその何て言うのかな俺の声は大きいし、まあ自分で言うのもおかしいけれどもうね、長年やったね。だからねそうなって組合との関わりっていうのは、昔から家畜商と組合はどっちかといえば争う関係よ。ていうのは家畜商は牛を売ったり買ったりするのが商売、組合はある程度定着させて良いものを生産させて市場に上場させてふきんで賄うわけだから。家畜商で組合になったのは俺が初めてであるじゃないか最初で最後じゃないか。

谷さん:じゃあ本当にイレギュラーだったんですね。珍しい存在。

根元さん:そう。

谷さん:それは人徳があったからとかですか

(画像:自身は信用から入ってしまう人間だ、と語る根本さん。人柄がにじみ出ている。)

根元 :いやそれは分からない。そう言っちゃあれだけど俺は人に馬鹿にされる何でも信用するタイプだから。人があーだこーだって言っても悪いのは悪いけどさだけどこういうわけだあいうわけだで人を信用するタイプなのね、疑ってかからないからそれがいいか悪いかは分からない。

※【コニシ感想】何でも信用してしまう、と仰る根本さん。やはり人柄あっての役職、人徳あっての周囲からの理解。

谷さん:凄い人望があったからじゃないかなって私は思いますけどね

根本 :まあこの辺で締めましょう

安久津・谷さん:ありがとうございます

根本 :別に役に立ったかわかんないけど。自分話含めちゃってな。

安久津・谷さん:いやいや本当に役に立ちました。

【本当の道草話】

根本さん:昔は皆一家で一頭は牛飼ってたから、勝手によそのあぜ道の草を自分の牛にあげたりなんてしたら怒られちゃってた。貴重な餌だから。草刈りするなって。泥棒扱いされちゃう!(「草刈ったら怒られちゃうんですね!」谷・安久津笑)

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