紺野宏さん(浪江町・帰還困難区域)61歳

①種:酪農(乳牛専門)

②頭数:35,36頭 

③電気:通電していた(津島は再エネに力を入れているため)。電気は100V電子レンジ位。酪農組合の支所支所単位で大きな発電機。飯舘村の田中さんが発電機を借りにきた。 

④水道:地中に埋まっていた水道管が外れた。引き水で井戸から。ボイラーのとこで水道管が抜けていた(宏さんの父が直したそう)。水自体は山からの引水のため困らず。 

⑤エサ:思った以上にあった。二回の藁とか、ラップ草とか。 

⑥当時のエサやり(通った)頻度:牛は避難させた。1週間~10日で、「牛の餌あるから取りに来ていい」と指示が来た。4月になってから、「20~30キロ圏内は移動できる」という文章をどこかから引っ張り出してきた。国も県もそれに対する指針がなかった。読み込んでいって、食品4回のモニタリングを通過すれば(放射性物質でなければ)牛を動かせるっぺ、と。岩代町にあった100頭規模の牧場。南ヶ丘牧場。子牛は石川町(白河市の東)福島県山形県民(酪農住民)に「被ばくした牛は…」と追い返されてきた。人間も牛も移動できなくなる前に、何とか移動しなきゃ、と奮起。移動完了するまではお祭り騒ぎ(やるぞー!)。 経営者としては、「牛を自分のところで見殺ししなくてよかった」

⑦震災当時の状況把握:自宅で遅めの昼食を食べて一服していた。親父とお袋と篤姫再放送を見ていた。すると地鳴りが南東の遠くから聞こえてきた。地震来るな、の10秒後にドドドドド…といつ止まるのかわからないくらい長い揺れが。玄関の戸をぱっと開けて、テレビを抑えたり食器棚を抑えたり。牛舎は壊れてなかった。40軒以上、区長として回った。17時に餌をやった。搾乳しようかと思って、搾乳管を小一時間で直した。ガラス管が割れてなかったのはラッキーだった。(原発から37km付近) 

⑧放牧:田4町分、畑1町2反、山10町歩、敷地5反歩。牛たちは家から50mほど歩いたところに居る。  

⑨牛の移動:家畜車で移動させた。慣れてはいなかったが移動させることができた。牛は特に怖がったりしなかった。  

⑩金言:「人生一寸先は闇怖くて、おもしろい。」「(何事にも)臨機応変に。」「生き抜く力を持ってほしい。」「一度の経験は百聞百見に勝る。」

 

インタビュアーA:いいですか。じゃあ、はい。こっちから質問していくスタイルなんですけれど、よいでしょうかね。お名前をお願いいたします。

紺野さん:はい。紺野宏です。

インタビュアーA:はい。漢字もお願いします。

紺野さん:紺色の紺、糸へんに甘い、あと野原の野。宏は一文字でウ冠にカタカナのナとノです。

インタビュアーA:はい。ありがとうございます。震災前のご住所をお願いします。

紺野さん:福島県双葉郡浪江町大字南津島。

インタビュアーA:南津島って事ですね。大字南津島。

紺野さん:アザ。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:ナカシモっては、上中下の中と下でナカシモって読むんですけども。23番地。

インタビュアーA:すいません。細かく。ありがとうございます。今の住んでらっしゃる市町村名。

紺野さん:郡山市です。

インタビュアーA:はい。震災前の地区名は。

紺野さん:南津島です。

インタビュアーA:南津島で。

紺野さん:地区としては南津島の上行政区でした。上です。

インタビュアーA:中下なのに。

紺野さん:いや、アザは中下だけども。

インタビュアーA:上行政区。

紺野さん:はい。南津島上行政区です。

インタビュアーA:はい。ご年齢、差し支えなければ。

紺野さん:61です。

インタビュアーA:はい。敷地とか、差し支えない範囲で教えてください。所有されてたところの。

紺野さん:以前のですか。

インタビュアーA:そうそう。

紺野さん:田んぼが4町歩。

インタビュアーA:4町歩もあったんですか。

紺野さん:いや、4町歩しかなかったんですね。

インタビュアーA:やめてくださいよ、しかとかって。4反じゃなくて4町歩ですね。

紺野さん:畑は1町2反くらいですかね。

インタビュアーA:へー。すごい。

紺野さん:山が10町歩ぐらいですね。

インタビュアーA:そんなあったんですか。

紺野さん:自分とこの敷地だけで、まあ、5反歩ぐらいにしときますか。

インタビュアーA:自宅があるところで5反歩もあったんですね。すごいですね。経営形態は。

紺野さん:震災直前は乳牛の専門でした。

インタビュアーA:はい。牛の頭数は何頭でしたか。

紺野さん:ざらっと入れて、35~36頭でしたかね。

インタビュアーA:はい。うち、子牛の頭数いくつですか。

紺野さん:10頭ぐらいかな。

インタビュアーA:はい。

来客者:どうもです。

インタビュアーA:こんにちは。この前はありがとうございました。お邪魔しております。

来客者:大丈夫でした。

インタビュアーA:はい。ありがとうございます。今回も大変だったみたいですけど。

来客者:まあ。

インタビュアーA:水がって聞いて。

来客者:なんとかなってるんで、今。

インタビュアーA:そうなんですね。お疲れさまです、本当に。はい。すいません。餌は購入されてたんですか。

紺野さん:してました。全体の5割ですね。配合飼料がほとんどだったので。配合飼料購入なので、それ入れて言えば半分ですね。

インタビュアーA:粗飼料は。

紺野さん:粗飼料は、半分ぐらいは買ってました。

インタビュアーA:あとはつくってたんですか。

紺野さん:つくってました。

インタビュアーA:つくってたんですね。

紺野さん:ええ。デントコーンが3町歩かな。

インタビュアーA:すごい。田んぼでつくってたんですか。

紺野さん:田んぼも畑も使って、転作で。

インタビュアーA:はいはい。

紺野さん:3町つくって、あとは借りてる草地で牧草つくってました。借りてたのが22町歩かな。

インタビュアーA:ちょっと待って。借りてるのが22町歩もあったんですね。

紺野さん:はい。

インタビュアーA:すごいですね。全部合わせたら30町歩ぐらいあった感じですかね。山合わせるともっとありますね。

紺野さん:借りてたのは借りてたから。

インタビュアーA:借りてたのは22町だけど、ご自身ので5町歩ありますもんね。

紺野さん:うん。

インタビュアーA:すごい。これ全部使ってたんですか、農地を。

紺野さん:使ってましたね。奇跡的にも使ってましたね。

インタビュアーA:すごい。

紺野さん:田んぼで使ってたのは6反歩だけ使って、あとは全部転作田にしてデントコーンか、ちょびっとした牧草か、おふくろの家庭菜園かな。それぐらいしてたのかな。

インタビュアーA:そうですか。

紺野さん:誰がやってたかって。

インタビュアーA:うん。

紺野さん:私と、親父と、おふくろです。

インタビュアーA:3人だけで維持できるんですか、この面積。

紺野さん:できません。

インタビュアーA:そうですよね。どうしたんですか。アルバイト。

紺野さん:してないけども、どっかで手抜くしかないですよ。

インタビュアーA:でも、荒らしてはなかったんですか。

紺野さん:ないですね。

インタビュアーA:すごい。分かりました。牛はいつ頃始めたか教えてください。

紺野さん:おふくろの話だと、昭和40年の9月に牛導入したって言ってました。

インタビュアーA:それは乳牛ですか。

紺野さん:乳牛です。

インタビュアーA:何頭ですか。

紺野さん:そこまで聞かなかったな。

インタビュアーA:昭和40年だったら1頭、2頭の世界ですよね。

紺野さん:1頭、2頭じゃないですか。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:うちの部落っていうか村自体、昭和20年以降の開拓の人間が入ったんですよ、開拓民が。その時に、じゃあ、何をやろうかって言って、薪炭終わった時に、誰かが酪農いいよっていうのを言ってくれて、それで結構開拓民が酪農を始めたんですよ。牛を飼い始めたんですよ。それが1頭、2頭だったんだけども、それ当たった人っていうか上手くいった人はそのまま飼い続けて、途中で違う職業っていうのかな、サラリーマンみたいなでいった人は行っちゃって、その時に、その昭和40年にやめようっていうところから親父が買ってきてみたいな。

インタビュアーA:同じ地区内から買ってたんですね。

紺野さん:距離数でいくと5キロくらいのところから。もしかしたら引いてきたかもしんないですよ。

インタビュアーA:すごい。乳牛で5キロ歩けるんですね。

紺野さん:どうだろう。

インタビュアーA:でもね、そうですよね。多分、歩けると思います。

紺野さん:そうですか。

インタビュアーA:はい。その昭和40年の9月からのストーリーを教えて下さい。どういう風に震災の直前までお父様とか紺野さんが。

紺野さん:40年は妹が生まれた年なんだけども、そんなに記憶はハッキリしてないですね。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:私が覚えているのは、2頭か4頭ぐらいになった時に覚えてるのかな。

インタビュアーA:物心ついた時に4頭。

紺野さん:4頭で。それまでは農耕用に牛飼ってたんですよ。

インタビュアーA:和牛ですよね。

紺野さん:そうです。

インタビュアーA:はいはい。

紺野さん:それは、じいさんが飼ってたんだけども、それをやめて。

インタビュアーA:じいさんっていうのは、お父様じゃなくておじいさんですね。

紺野さん:おふくろのほうの。

インタビュアーA:はい。何頭飼ってたんですか、和牛。

紺野さん:全部あそこに房に入ってたんだから5頭はいたと思う。

インタビュアーA:5頭も。でも、広いですもんね、面積ね。

紺野さん:5頭プラス、子牛がそれにくっついてたのかどうかは分かんないけども、5頭以上はいたと思う。

インタビュアーA:5頭プラス子牛。

紺野さん:それには、日々管理はしてた。みんなして。

インタビュアーA:紺野さんもですか。

紺野さん:はい。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:しっかり、1週間に1回ボロ出ししてたり餌やってましたし。さっき言ったように世の中の流れとして、銭金になるっていう事で親父としては乳牛やりたかったんですよ。でも、なかなか、婿養子に来たっていう事もあったし、じいさんばあさんの面もあったっていう事でなかなか乳牛導入できなかったんだけども、そういうタイミングかな、乳牛になったんですよ。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:4頭ぐらいになってからあっちこっち増やし始まって、一時期は10頭ぐらいは入れたんだけども、やっぱり、その時も冬場は出稼ぎに行っちゃってそれだけでは生活できなかったっていう事もあって。20頭ぐらいなったんですよ、もう、入れるところ、1つの房に、1頭だったらそれを半分にして2頭入れてってして、全部で10頭くらい入った瞬間にですね、出稼ぎやめて新たな牛舎建てて牛小屋してて。一大決心して。

インタビュアーA:それが20頭になったっていう時なんですか。

紺野さん:いや、違う。それは20頭じゃないな、15~16頭になったのかな。

インタビュアーA:ああ。それは誰がやったんですか。お父さん。

紺野さん:父親ですね。それがですね、昭和47~48年かな。隣近所にあった鳥飼ってた小屋だったのかな、それをもらい受けてそのまんま中改造して牛入るようにしたみたいな感じだったような気がするな。

インタビュアーA:じゃあ、立派な鳥小屋だったんですね。

紺野さん:うん。結構大きな、規模としても大きな鳥小屋でしたね。ただ、高さがなかったから結構頭ボコボコってぶつけながら仕事してたのは覚えてる。

インタビュアーA:うんうん。

紺野さん:昭和54年ぐらいから農水省がですね、第2次農業構造改善事業っていうのを始めたんですよ。第2次っていうくらいだから第1次とかってある訳だけども、我々が乗っかったのが昭和54年、55~56年の第2次農業構造改善事業っていうのは乗っかって。周りの、たまたま残った、ある程度酪農でやってけるなって思った数件が最初名乗りをあげて、牛舎とか牛の導入とか待機場を整備し始めたんですね。

インタビュアーA:それは大規模化を支援する。

紺野さん:ですね。あと、構造改善なんかもやったんですけどね、田んぼとか畑の。

インタビュアーA:3反で1つにする感じですね。

紺野さん:ですね。

インタビュアーA:はいはい。

紺野さん:我々としては、牛舎できないかっていって牛舎あげたらばたまたま該当して、うちはみんながやった後だから昭和56年だったんですよ。結構最後のくらいなのかな、ようやく予算ついたのが。その昭和56年に申請して下りて建てたのが昭和58年ぐらいなっちゃったのかな。それで初めて22頭っていうしっかりした牛舎が建ったんですよ、鉄骨の。

インタビュアーA:1個で22頭。

紺野さん:はい。鉄骨の2階建てが。

インタビュアーA:鉄骨ですか。はい。

紺野さん:これで近代化ができるぞみたいな部分で、両親共々嬉しかった次第でしたね。少しは省略化できんのかななんて。

インタビュアーA:ご両親が搾乳はされてたんですか。

紺野さん:ですね。

インタビュアーA:その時って手搾りですか。

紺野さん:違う違う。ミルカーです。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:当時からミルカーです、全て。手搾りは物心ついたその昭和40年から1年あるかないかだよ。

インタビュアーA:じゃあ、もう、5年目ぐらい。

紺野さん:昭和41年か42年ぐらいからはもう搾乳機は入ってました。手搾りできるのは精々1頭か2頭しかいないです。

インタビュアーA:痛くなりますよね。

紺野さん:そうそう。痛くはなるし、牛も嫌がってくるし。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:うん。長い時間搾ってると。本来であれば5分くらいで済む話なのに10分も20分も、牛も飽きてくるし、人間もつらくなってくるし。嫌がってくるんですよ、牛が。

インタビュアーA:ああ。

紺野さん:酪農組合自体がそういった事を推進してたのかなんだか分かんないけども、意外と早く我々も導入する事はできましたね。昭和58年で、その時から、今度、58年だよね、私が3年ばっかり研修で他に行ってたので、その間はちょっと分かんないだけども。

インタビュアーA:北海道行かれてたんでしたっけ。

紺野さん:いえ、たまにある学校行ってたんですね。

インタビュアーA:ああ。

紺野さん:たまにあったっていうやつかな。その時はさほど、親父おふくろ、大して負担なんないくらいの頭数で飼ってたんですね。でも、まだ、その時は22頭の牛舎なんだけども、精々搾ってても2~3頭だったのかな。田んぼも畑もそれでちょっとぐらいしかやってない。田んぼも3町歩つくって、3町歩のうちの2町歩ぐらい出荷してっていうところでやってみたいだった気がするな。まだ、あの頃は米価高かったからね。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:米価で200万か300万取って、牛乳で500万、600万取れば取り敢えずいいかなっていう部分はあったような気がする。だから、あの時のおやじの酪農経営発表っていう大会ってあるんですけども、年に1回ずつ、酪農家だけの、二足のわらじってきたんじゃなくて、複合の経営のあり方でなんたらかんたらっていって発表した事あったんですけどね。なので、まだ、あの時は水田と酪農、乳牛で生活していきましょうっていう2本立てでやってたような気がする。

インタビュアーA:結構大変だったりしませんでしたか。田んぼも同じ面積ある訳だし。

紺野さん:いや、田んぼっていうのは、そもそも、春植えたらば、秋まで台風来る以外は。

インタビュアーA:そうですけど、秋って牛の餌つくる一番忙しい時じゃないですか。

紺野さん:そう思うか思わないかですね。田んぼは意外と稲刈りだって雨の日だってできんですよ。干すのも雨の日だってできんですよ。あとは乾くのが乾いてほしいってだけ。

インタビュアーA:雨の日できるんですね。

紺野さん:できます。

インタビュアーA:そうなんだ。勉強になります。

紺野さん:草刈りはできないけども、雨の日は田植えだってできるし稲刈りもできます。

インタビュアーA:稲刈りできるんですね。分かりました。

紺野さん:ただ、コンバインはダメだよ。

インタビュアーA:そうですよね。手の世界だったらですよね。

紺野さん:そうそう。バインダーの世界もできます。

インタビュアーA:バインダーまでいけるんですか。

紺野さん:はい。

インタビュアーA:そうなんですね。主力はお父様とお母様で。

紺野さん:ですね。その頃はね。昭和59年に戻ってきたのかな、うちに。3月、4月に卒業して。そっからはいくらかずつ、本職にやろうかなって。段々米価も安くなってきて、じゃあ、田んぼは少しずつちっちゃくしていって、金のもらえるうちに転作、飼料畑にしていこうかってなったんじゃないかな。その4町歩のうち6反歩だけ田んぼつくってっていう。

インタビュアーA:なるほど。いつ頃から紺野さんが経営主体になったんですか。

紺野さん:経営主体は、基本的には、私としてはなりたくなかったんですよ。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:こんな事言うと根性なしって言われんだけども、親父おふくろに死ぬまで経営していてほしかったんですよ。

インタビュアーA:そういう気持ちはありますよね。

紺野さん:うん。ただ、途中で酪農組合の役員になんなきゃならないって事で、それで、じゃあ、名義を私の名前にして、しょうがねーなと。

インタビュアーA:しょうがーねなと。

紺野さん:しょうがねーなって事で、役員やって12~13年だから50歳の時ですね、50歳前後ぐらいでですね、名義を変えました。

インタビュアーA:経営移譲みたいな感じですかね。

紺野さん:そこが、俺はあんまし言いたくないんですよ。移譲ってされたくないっていうか、最後の最後まで親父おふくろやってろよっていうのが気持ちだったので。いや、作業の全ては私やってましたよ、基本的に。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:1から10まで。

インタビュアーA:そうなんですか。でも、移譲はしてないって事ですね。

紺野さん:銭金の動かし方とか、世間に対する表看板は親父おふくろ立てたかったんですよ、いつまでも。

インタビュアーA:うん。

紺野さん:正直な話。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:地域も一緒でした。でないと、親父おふくろだって、やっぱり、ポロッと引っ込められちゃって、じゃあ、俺何すればいいんだ、ってなっちゃったら嫌だなと思ったのでいつまでも出したかったんですよ。

インタビュアーA:そうですね。

紺野さん:っていうのが、気持ちがありました。

インタビュアーA:分かりました。震災の時までそういう感じで、全部1から10まで紺野さんがやって、看板はご両親でっていう感じ。

紺野さん:そうです。はい。極端な話、草刈りだって、草刈って、親父は何やるかっていうと、まあ、ちょっと遠距離だったので、借りてた牧草地が、そっから運ぶのは親父だったんですよ。

インタビュアーA:なるほど。

紺野さん:はい。おふくろは何してるかっていうと、うちでお昼ごはんと晩ごはんつくればいいなとかっていうような話で。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:でも、世間体としては親父おふくろ頑張ってるよっていつも言ってました。

インタビュアーA:素晴らしい。大変だった事ってなんですか。

紺野さん:どっちがですか。前、後ろ。

インタビュアーA:震災前。ありますかって言ったほうがいいのかな。

紺野さん:親父おふくろの意識を変えるっていう事。

インタビュアーA:どういう風に意識を変えるのが。

紺野さん:さっきの田んぼ話なんだけども、田んぼも個人的に好きなんですよ、田んぼつくんのが。でも、田んぼに必ずおふくろ達入るんですよね、入るっていうか、当たり前だけども田植えした後に欠株ってあんだけども、必ず補植するんですよ、挿し苗っていって。それ友達と喋ってて、あれっていらないよねって、俺もいらないと思うんだって、それをやめさせるにはどうしたらいいかって、じゃあ、おふくろが入れないようにすればいいんでねーのかって。

インタビュアーA:物理的に入れないようにって事ですか。

紺野さん:いや、田んぼに入ると大変だなっていう事を身を以て分からせれば入らないんじゃないかって。普通だったらば、田んぼなんて10センチぐらいしかロータリーかけないんですよ。

インタビュアーA:はいはい。

紺野さん:それ、俺はわざわざ冬場に30センチくらいプラウかけたんですよ。

インタビュアーA:そうなんですか。

紺野さん:はい。そしたら、次の年の田植えん時はズボッ。

インタビュアーA:ズボッて。

紺野さん:ふざけんでねーぞって言われたの、おふくろに。入れるかこんなところって、いや、入んなつったの。

インタビュアーA:実力行使ですね。

紺野さん:うん。それから入らなくなった。

インタビュアーA:ああ。

紺野さん:欠株したからって言って、その時の屁理屈が、1本植えたからっていって今まで6取れましたって、2本目だからって12も取れるかって言ったの、おふくろに。苗がたまたまここにありました、1本植えた時に、俺は基本的に1本しか植えないんですよ、1勺に1個、1本植えて6俵取れましたって、俺は6俵が最高だと思ってんですよ、6俵さえ取れれば御の字っていう、2本植えたらば12俵取れるかって、3本取れたらば、18俵取れるかって。一緒だろって。基本的に一緒なんだって。これで8俵も10俵も取れれば最高じゃないのって、こんなに手間暇かかんなくてって。案の定取れるんですよ。

インタビュアーA:そうですか。

紺野さん:はい。そうすると、秋になって、やっぱり、ほらねって。親父もおふくろも納得する。

インタビュアーA:納得したんですね。

紺野さん:はい。

インタビュアーA:よかった。昔ながらの考え方変えるのって、本当、大変ですもんね。

紺野さん:もう、実力行使です。

インタビュアーA:見せるのが一番ですよね。

紺野さん:うん。その1本、苗すんのにも、普通、苗がこうやってあるんだけども、田植えの時は。ここに、我々としては、1合コップに種籾を何グラム入れるか、何割入れるかってあるんですね。普通だったらば、1合コップに1合入れるんですよ。そうすると220グラムみたいなんですよね。水の量でもあるけども。それを、普通は1合コップに1合なんですけども、我々は6石ほど減らしたんですよ、4割減ぐらい。本当にまばらなんですよ。まばらだから結果も出るよねって。そこまでしてもよかったですよ、なったら、これも実力行使で。

インタビュアーA:大して変わらなかったんですか。

紺野さん:変わんない。

インタビュアーA:そうなんですか。

紺野さん:種籾も少なくて済むし、苗箱も軽くて済むだろうって。4割少ないと苗箱自体がうんと軽いんだ。苗が軽いんだから。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:見た瞬間は何これっていうぐらいの田んぼだよ。

インタビュアーA:空き空きなんですね。

紺野さん:そう。植えた瞬間なって。禿頭のちょこっと髪の毛出てるぐらい。でも、一緒。

インタビュアーA:一緒なんですか。

紺野さん:一緒一緒。

インタビュアーA:へー。

紺野さん:それをやって3年で変わったね。

インタビュアーA:それは紺野さんが発案したんですか。ちょっと減らしてみたいな。

紺野さん:いや、友達と喋ってて。友達は逆にできないんだよ、面積いっぱいつくってて、それで、田んぼ専門農家だからそれやっちゃって失敗したら大変じゃない。俺は趣味だから失敗したって構わねんだって頭があるのと。でも、成功したんですよ。おふくろは、入るのは稲刈りの後の稲架掛け、あん時だけです。

インタビュアーA:なるほど。ほぼほぼ、趣味じゃないけど。

紺野さん:そうそう。それはもう人手必要だから。その時だけです、おふくろ入るのは。親父もそん時ぐらいだね。

インタビュアーA:大変だったけどちゃんと成功したんですよね、意識変えるのはね。

紺野さん:面白いように変わってった、あん時は。

インタビュアーA:そうですね。

紺野さん:話するんですよ、あそこの苗箱の中、こんなモサモサだぞとか言ってさ。ほら見ろなって。そこまでやったって一緒なんだからって。さっき言ったように、1勺近くに1本だと箱数で16箱だか20箱ぐらいなんですよ。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:他は下手すると25から28箱なんですよ、1反歩に。箱数からして違いますよね。5町歩で100箱あればいいくらいなんですよ、5町、6町って。それで他は、1町歩だったらば、200箱、300箱つくらないかんでしょ。資材だけで痛いんですよね。

インタビュアーA:ですね。

紺野さん:思うだけで。

インタビュアーA:うん。

紺野さん:よくあんな事やってるよねって。自分たちはこうやって種まきしながら言うんだ。ハハハなんて言いながら。

インタビュアーA:効率化を極めたっていうか。

紺野さん:あれは楽しかったな、あん時は。

インタビュアーA:なるほど。

紺野さん:面白いのは、この間までね、おふくろはふざけんでねーぞって言ってたのが、次の年、やっぱりなって言ってんのがおもしれーじゃん。あん時は面白かったね。同じ話題でしたよ。隣は大変だよねなんて言って。

インタビュアーA:1年前まではご自分も反対されてたのに。

紺野さん:そうそう。

インタビュアーA:でも、お母様も楽しかったでしょうね。そういうの見てね。

紺野さん:だと思うな。田んぼに入んなくて済むし。

インタビュアーA:うん。そうなんですね。

紺野さん:だって、30センチも田んぼなると、おふくろなんて膝までガボッ入っちゃうからね。ダブダブッて。

インタビュアーA:やった事あります。

紺野さん:もう足が出ないからね。

インタビュアーA:長靴も埋まっちゃいますよね。

紺野さん:そうそう。行っとけ、入る事ねんだって。

インタビュアーA:すごい息子さんですね。

紺野さん:でも、稲刈りはバインダーだし、干すのは天日干しだっていうのは決めてたんですよ、昔っからずっと。コンバインは絶対入れないって。

インタビュアーA:そうなんですね。それは固くなっちゃうからですか。

紺野さん:違う。趣味の世界だと思うとそういうのが楽しいんですよ。

インタビュアーA:なるほど。楽しむって事ですね。

紺野さん:そう。竹を運んでいって、田んぼに運んでいって、それをこう稲架につくんのも楽しかったし。その前までは親父おふくろやってたんですけども、ある時から竹が重くなったって親父言ったから、じゃあ、俺がやってるよって。楽しいんだ、あの稲架づくりが、またこれが。つくったやつと稲の数が合うっていうか、ちょうどピタッとなった瞬間のあの喜び。

インタビュアーA:分かりました。私はまだその境地に全然行けませんけど。なんか分かります。嬉しいですよね、自分の計算が合った時とか。

紺野さん:うわ、ドンピシャコーデだつって。

インタビュアーA:田んぼは、もう、趣味でやってて。趣味で6反って広いなとは思いますけど趣味でやってて、牛のほうは大変だった事とか、幸せだった事とか何かありますか。

紺野さん:大変だったのは、最初は四角く梱包してたんですよね、本当は丸くだけれども。

インタビュアーA:コンパクトですよね。

紺野さん:コンパクトに。あれが大変だった。その22町歩も最初借りた時にはコンパクトだったんですよ。

インタビュアーA:22町コンパクトって雨だったら終わりですよね。

紺野さん:だし、それを全部片付けるってなったらもう必死ですよ。

インタビュアーA:夜中までかかりませんか。

紺野さん:そう。あれは嫌だった。同じものを3回も4回も、まずトラックに入れました、トラックから今度倉庫に上げました。同じものを2回も3回も運ぶってのは嫌だね。あれだけは嫌だ。もう二度とやりたくない。

インタビュアーA:乾燥はカラカラに乾燥させて。

紺野さん:ぐらいまで。

インタビュアーA:天気大丈夫でしたか。

紺野さん:大丈夫です。

インタビュアーA:ちゃんと読めた。

紺野さん:いや、読めないです。読めないから、草刈り自体にちょっとした早く乾かす装置みたいなのがあるんですよ、実は。モアコンディショナーっていって、普通のものだったらただ単に潰したり、傷つけたりするやつ、あと折ったりするやつ。できるだけ乾くの早いほうがいいって敢えて買いました。2倍か3倍ぐらいの値段で。

インタビュアーA:高いですよね、あれも。

紺野さん:これも、やっぱり、親父おふくろを説得して。

インタビュアーA:効率が違いますよね。

紺野さん:全然違う。草も柔いし、ふんわりしてるし。

インタビュアーA:コンパクトで22町はすごい。

紺野さん:一番草で2000個、3000個の世界は嫌ですね。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:もう嫌だ。あの思いは絶対したくない。

インタビュアーA:すごいと思います。超人ですね、これ。

紺野さん:ロールにしてからですよ、世界が変わったのは。

インタビュアーA:ロールやっぱ楽ですか。

紺野さん:楽なんてものじゃない。

インタビュアーA:分かりました。はい。

紺野さん:雨降る1分前までできますからね。

インタビュアーA:そうですよね。むしろ、雨降ってからも私やってました。

紺野さん:ダメですよ。それはダメです。

インタビュアーA:だって降っちゃうし。

紺野さん:それはまずい。

インタビュアーA:当日中に上げましたけど、それ。

紺野さん:あー、そう。

インタビュアーA:確かに、コンパクトの事考えるとロールは楽ですね。牛やってて楽しかった事とか、幸せだった事とかなんでしょうか。

紺野さん:草つくりも、畑づくりもそれ自体も楽しかったしね。朝こっぱやくプラウかけてして、牛舎やって、日中草刈りして、5時にまた牛舎に搾乳して、8時くらいにそこの遠いところの草地からトラクター引き上げてきて、自分家の近くのロール置き場に行ってラッピングするんですよ、草地でラッピングできないから近くまで持ってきてラッピング、それしてラッピングしたらば、また夜中の12時ぐらいに草地にトラクター返しに行くんですよ、その次の朝また。

インタビュアーA:真っ暗じゃないですか。

紺野さん:当然ですよ。また戻ってきて、次の日、朝、もしプラウかけんの残ってるんだったらプラウかけして、また牛舎やってって。でも、そんな事やっても楽しかった。あれは楽しかったね。

インタビュアーA:すごい。

紺野さん:妙に楽しかった。

インタビュアーA:夜中の12時に戻した人初めて聞きました。9時だったら聞いた事あるけど。

紺野さん:まだそんなのは甘いよ。

インタビュアーA:そうなんですね。分かりました。ありがとうございました。震災の当時とかの話になっちゃうんですけど。

紺野さん:はい。

インタビュアーA:よろしいですか。

紺野さん:大丈夫ですよ。

インタビュアーA:大丈夫な範囲で答えてください。震災当時はどこにいらっしゃったですか。

紺野さん:俺は自宅にいました。

インタビュアーA:家の中のほうですね。

紺野さん:13時46分か。

インタビュアーB:14時ですかね。

紺野さん:14時か。親父おふくろとちょっとした遅いお昼食べて一服してたんですよ、BS1だか2だかで、篤姫の再放送見てました。そろそろ最終回だよねみたいな。

インタビュアーA:篤姫、なんか懐かしい。

紺野さん:はい。

インタビュアーA:揺れましたよね。

紺野さん:天璋院篤姫が、そろそろ終わりだななんて思いながら見てたらば、ゴーッていう地鳴り聞こえてきたんですよ、遠くから。方向からすると南東のほうから。地震くるななんて言ったんですよ。そっから5秒か10秒ぐらいですよね、ドドッて。もうそれがいつ止まるんだって分かんないくらいに長く。俺は戸開かないと困っちゃうので玄関のドア、バーッと開けて。おふくろは買ったばかりの液晶テレビのところにサッて行って液晶テレビ押さえて。親父は台所に行って食器棚押さえて。

インタビュアーA:みなさん機敏ですね。よく、あの揺れで歩けましたよね、そもそも。

紺野さん:いや、そんな事ないよ。

インタビュアーA:そんな揺れてない。

紺野さん:揺れたのは揺れたけども歩けない程のじゃない。

インタビュアーA:そうですか。

紺野さん:ただ、外に行って牛舎確認したりなんかしててもまだ揺れてたんだよ。銅像に行っても銅像もまだ瓦も落っこってなかったし。これは大丈夫だなって思ってまた家に戻ってきてもまだ揺れてたね。

インタビュアーA:牛舎を確認しにいったんですね、もう。

紺野さん:行きました。

インタビュアーA:どうでした、牛舎は。壊れてはない。

紺野さん:なかったなかった。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:ただ、分かったのが、水道管がその間に、地中に埋まってたやつが外れたとかっていうのはあった。

インタビュアーA:やっぱそうですよね。その水道管は井戸からとかですか。

紺野さん:そうそう。引き水で井戸からですね。それくらいかな。それは牛舎やる直前ですよ、分かったのは。

インタビュアーA:そうなんですね。道からヒューッて。

紺野さん:違う違う。あ、電池足んなくなっちゃった。

インタビュアーA:すいません。もう1個のほう。

紺野さん:話戻るけども、楽しかった事って言えば、その牛飼ってて楽しかったのは、たまたまですね、親父おふくろを旅行に出せなかったっていうのがあって、一緒にね、別個別個行った事はあったんですよ、それぞれ別個別個はね、親父おふくろ。

インタビュアーA:誰かがついてやってればね。

紺野さん:ある時、分娩を上手く調整すると休める時ができるんじゃないかなっていう事が段々と牛やってて分かってきて、それをまだ2年か3年ぐらいかかったんだけども、牛の分娩タイミングを春以降にしたんですよ。そうすると、必ず乾乳期間って休めますよね、それを1月、2月くらいに持ってった、2月、3月に持ってきたのかな、をつくったんですよ。それをつくるために2年くらい前から、思いついた時からやり始めて。

インタビュアーA:調整して。

紺野さん:そう。30頭の計算にいるのに、その時ね、12~13頭まで減ったんですよ、その2月に。そうすると、じゃあ、俺1人で管理できるよつって、搾乳と餌やりは。本当に休みてと、おふくろ親父を1週間岡山にやる事ができたっつうのが、レーンがドンピシャ。笑っちゃったぐらい本当にドンピシャでした。そん時あれだよ、きつかったよ。

インタビュアーA:12頭の搾乳と餌やりは紺野さんが1人でやって、1週間旅行に出した。

紺野さん:体はきつかったよ。それはしかたねーから。300キロ、400キロの世界だから。でも、あれは楽しかった。笑っちゃうくらい。

インタビュアーA:ああ。

紺野さん:1人で牛やって、風呂に入って、ご飯食べてたって意外と体、楽だったですよ。

インタビュアーA:親孝行ですよね。

紺野さん:あれは面白かったね。

インタビュアーA:3年計画みたいな。

紺野さん:たまたま、そのパータンでいったらその3年後にそれが、ちょうどタイミングが合ったって事ですね。でも、その後崩れたかっていえば崩れなかったな。繁殖がそれでガクッて落ちるかっていったら落ちなかったし。乳量も落っこったかっていえば、逆に、知らぬ間に30頭いるかいないかくらいで1トンまで搾ったし。

インタビュアーA:乳量増えたですね。

紺野さん:うん。あの時くらいだったな、楽しかったのは。

インタビュアーA:ありがとうございます。震災の時の続きなんですけど、それで水道管が破裂してるのは。

紺野さん:抜けてたのが確認できたんですよ。

インタビュアーA:目で見えて確認できたんですか。

紺野さん:そうそう。

インタビュアーA:ヒューッてなってたんですか、水が。

紺野さん:一番はボイラーのとこで抜けてたみたいでしてね。それは親父が直したんだけども。

インタビュアーA:直したんだ。

紺野さん:直しました。だって、直さないとボイラー水出ないし。

インタビュアーA:自分で全部そういうのって直せるもんなんですか、酪農家さんって。

紺野さん:直すんでしょうね。分かんない。ただ、地震起こってから行政区長として地域回ってたんですよ、全部、取り敢えずね。それで、全部40数件回って、津島の役場の出張所あるからそこに行って報告して、戻ってきて、したらば、親父おふくろがそうやって水道管直してて。あら、こんなとこ外れてたんだねって。5時ちょっと過ぎに、じゃあ、牛、餌やって搾乳しようかと思ったら搾乳管のほうが今度は外れてたのが分かって。あら、こんなの外れてるって、それも適当に直したのかな。

インタビュアーA:そうですか。

紺野さん:はい。ラッキーなのが電気がきてたって事ですよ。

インタビュアーA:そうですよね。電気きてたんですよね。

紺野さん:水自体は自分も山からの引水だからそれも困んなかったし。

インタビュアーA:田中さんが、飯舘の、発電機借りにきたみたいですね、津島にね。

紺野さん:はいはい。

インタビュアーA:津島は。

紺野さん:電気きてたんですよ。

インタビュアーA:風力発電でしたっけ、なんかやってたんでしたっけ。

紺野さん:いや、全部、全然、中通りのほうから供給ですから。

インタビュアーA:中通りから供給。

紺野さん:路線図は分かんないけども、供給されてたみたいです。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:はい。

インタビュアーA:分かりました。特に水も電気も困らず。

紺野さん:ですね。

インタビュアーA:搾乳管もすぐ直しちゃって。

紺野さん:適当に直して、動きましたね。

インタビュアーA:それは1日で直ったんですか。

紺野さん:1日っていうか小一時間で直して。

インタビュアーA:分かりました。はい。

紺野さん:台からズッコケてた真空発生機は台に戻してよっこらしょつったらば。我々っていうか私のところは、牛舎、牛のすぐ上にガラス管なんですよ、その牛乳通す管が。それが1本も割れてなかったってのがラッキーでしたね。

インタビュアーA:ガラスなのに。

紺野さん:ガラス管だった。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:他ではステンレス管使ってんですよ。

インタビュアーA:うん。

紺野さん:たまたま、うちはガラス管だったんだけども、ガラス管もどこも破損してなかったからとてもラッキーでしたね。

インタビュアーA:そうですね。

紺野さん:うん。あれで、本当に1箇所でも2箇所でも割れたらばもうアウトですよ。

インタビュアーA:ですよね。

紺野さん:そんな、塩ビ管で繋ぐとかって訳にもいかないのでね。

インタビュアーA:そうですよね。難しいですよね。その当時、起きた直後に感じてた事ってなんだったんですか。取り敢えず、区長として見回んなきゃみたいなそんな感じ。

紺野さん:それはすぐやって、あとは。

インタビュアーA:牛の作業もされますもんね、これね。

紺野さん:うん。最後はもう一回水かなっていうぐらいだね。

インタビュアーA:その時の意識としてあった事は水と。

紺野さん:うん。困った事って、どこも地割れもしてなかったし、建物倒れたっていうのも聞いてないし、見た事ないし。ただ、ずっとテレビ見ちゃってたから、おふくろが。

インタビュアーA:テレビ点いてますもんね。

紺野さん:あちこちが津波がひどいっていうのが分かってました。たまたま閖上んとこ出たんですよ。岩沼だっけ、宮城県の、あ、来る来るって。橋の上にいたパトカーが飲み込まれる瞬間まで見てました。

インタビュアーA:ああ。

紺野さん:閖上あったなと思いながら。こっちから早く逃げてって言ったって届かないからね、あの辺の歯がゆさは。

インタビュアーA:ですよね。その瞬間を見てたっていう事ですよね。

紺野さん:ぐらいかな。海のほう大変だったんだとは思ってた、その夜まではね。

インタビュアーA:津波は自分とこは大丈夫だから、地震が終わったら取り敢えず夜まではある程度冷静っていうか。

紺野さん:だったね。明日から本格的に水道とか配管確認しないといけないよねっていうぐらいでしたよ。

インタビュアーA:夜からの話をお願いします。夕方から。分かんないですけど。

紺野さん:夕方は、集乳車いつ来るかっていうのまでが分かんなかったのよ。

インタビュアーA:なになに。

紺野さん:集乳車、タンクローリーが。牛乳集めに来ない、今日は来ないよなと思って、それは当然だったんだけども。それが連絡つかないのが3日、4日とだったんだよね。

インタビュアーA:連絡ついたのが4日後。

紺野さん:うん。

インタビュアーA:携帯持ってましたか。

紺野さん:持ってた。

インタビュアーA:ガラケー。

紺野さん:そうです。

インタビュアーA:ちゃんと番号も入ってたんですか、そのタンクローリーの業者さんの。

紺野さん:それはまた別個に入ってたんです。

インタビュアーA:でも、連絡はちゃんと。

紺野さん:それは酪農組合の当時の常務に連絡したの。からかどっちかきたんですよ。今、その牛乳工場のほうはとんでもない騒ぎだと、ものは全部散乱しちゃったし、配管は断線したしとかって。そう思ったらば、今の地震ってそうだよなって。郡山の大槻町にあるんですけども、酪王乳業っていう。とんでもないと、復旧の目処も何も立ってない状況だよっていうのが次の次の日だっけかに知らせてもらって。

インタビュアーA:郡山のほうが壊滅的だったんですね。

紺野さん:そうそう。待てど暮らせどローリー来ないからどうしたのってどっかから聞いたんですよ。そしたらば、そういうように連絡があった。みんな逃げ惑ってる最中だからね、今日は来なかったから明日辺り来んのかななんてこんな適当に言ってたんだから、その日の11日の夜まで。あっちこっちの津波のそん時の状況をずっと見ながら、気仙沼のコンビナートでしたっけ、あそこでずっと火事だなって思いながら見ながら、なんとかいけねーかなって。次の日ですよ、朝の5時に、急転直下したのは。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:今日も元気でやるかってお茶飲みながら。そしたらば、当時の役場職員が、津島出身の役場職員来て、今から難民の人達が避難しにくると、行政区の集会所解放してちょうだいよって言われたの。何なのって言ったらば、避難民くるのだって、住民くるから。そしたらば、6時ちょうどかに1分間のサイレン鳴らして、10秒ぐらい休んで、また1分間流してくらいのけたたましいサイレンが1時間くらい続いた、そっから。

インタビュアーA:津島地区のサイレンが。

紺野さん:全部じゃないかな。町内全部。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:すぐに避難しろっていう。そんな曖昧な。テレビ見てたらこんな事だよねって。どこまで俺達も見てるか分かんないけど、その原発のね、状況が。

インタビュアーA:その時にはもう原発が。

紺野さん:10キロだったのか20キロだったのかちょっと確認みたいにできないな。

インタビュアーA:危ないなっていうのは。

紺野さん:危ないらしいとか。

インタビュアーA:らしいっていう感じで。それでどうされたんですか。その情報を知って。

紺野さん:取り敢えず、いいよって言って、早くきたら大変だからっていって、集会所、鍵は開けてきて、自分たちの搾乳を始めたんですよ。自分達の、まず、牛舎作業を全部やったんです。

インタビュアーA:ルーティンですね。

紺野さん:うん。普段通りにって感じ。普段通りにごはんも食べたし、朝飯も食ったし。親父おふくろにその水道のほうの修理頼んで、俺は集会所のほう見てるよって。集会所に行ったらば、1人、2人通り過ぎんだよね、車だけはいくんですよ、うちの前の114号線を。止まる気配なかったんだけど、たまたまですね、津島地区で郵便配達に行ったんだと、それが難民から帰ってる人なんだけども、来て、あらアマノさんって言って、もし差し支えなければここ集会所だから使っていいよって言ったのがさっきと一緒。ああ、そうかい、って言って、じゃあ、入って。次に同級生がたまたま来て、今からどっかに行きたいんだけども、じゃあ、ここいいよって言ったのが最初だったんだよね。3人か4人ぐらいなってから、もしかするといっぱい人来るかもしんないから、ちょっと、買い出しに行ってきてくれませんかってその知った人に、アマノさんっていう人と俺の同級生に頼んだの。あの時が頼んだタイミングがよかったんですよね。あれ1時間遅れたらば、津島の店屋さん何もなくなっちゃってたんですよ。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:そうなんですって。取り敢えず、俺の名前言ってくれればここ全部通じるはずだから、買えるもの全部買ってきてくださいって、買ってきてもらったの。米と漬物と、こんくらいはうちにあるから心配しないでどうぞって。お昼近くになって100人ぐらいになってきたのかな。お昼食べなきゃなんないよねっていった時に、自分家の炊飯器じゃなくてすぐ隣の近所の人が、うちで今余ってる炊飯器あるから貸しますよっていって、2升炊きくらいの釜を持ってきたんですよ。そしたらば、もう1人のキャンプ場やってる人が、うちにもちょっと大きな釜あるから使ってちょうだいっていって、極端な話、2升釜って2つ電気の釜だけども借りられたのかな。それで100人分ぐらい間に合ったんですよ。

インタビュアーA:紺野さんとこのお米で。

紺野さん:そう。うちは、さっきの話じゃないけども、米だけはいつだってあるからっていう事で、籾でやって、それ玄米にして、すってきてどうぞってやって。でも、これってどのくらいだったらば、みんなして食べたらうまいのかなって、満足するかなっていう事を1升炊いてもらって、ラップに包んでもらったの、最初。あ、違うな。何人か来て、うちに。段々増えた時に結構意外とリーダーシップ取ってくれそうな女性いたんですよ。その人に全体のまかないしてもらえませんかって、私は私で違うとこ行かなきゃなんないのでって言って、その前に、これでどのくらいのおにぎりできるかみんなで一回やってみませんかって。そこで20個だか25個になって、1升のお米がね、そしたらば、これだったらば、お年寄りも含めて我々も食べてもいいぐらいの感じだねってなったのが20個ぐらいじゃなかったかな。それ以上ちっちゃくしちゃうと、みんなちっちゃくなっちゃう。1個もらっただけでは不満みたいな。じゃあ、これでやろうって。みなさんこれでやりましょうねっていう合意はあったような気がする。不満のないように食べさせてくださいねって言ったの。米はいつでも持ってきますからって。それだけ約束して、米、取り敢えず、30キロ1つ置いて、これでよろしくねって。最終的には200人近く集まったのかな。今度、夕方、搾乳終わって行ったらば、町長をはじめとする町議会議員がゴロゴロッて来てて、なんなんだこの軍団はみたいな感じだったんだけども。あ、ごめんなさい。

紺野さん:集会所、汲み取りなんですよ。汲み取りだと、これだけの人数いるとすぐいっぱいなっちゃうんじゃないのって言って、じゃあ、使った紙だけは捨てないでねっていう風にみんなに協力をお願いしたんですよ。ちょっと汚い話だけども。ビニール袋用意したのかな、これに入れてちょうだいねって言って。その時は夕方なるかなんないかぐらいで、役場の職員が各避難所に2名ぐらいずつ配置されたんですよ。彼らと喋ってて、こういう風にしましょうねって言って、できるだけストーブっていうか石油節約するためにも、できるだけ密閉っていうかねして、あまり開け閉めしないようにねみたいな事でみんなに協力してもらって。部屋数が20畳くらいの部屋が3つくらいあったんですよね。あと台所あったので、そこにそれぞれちっちゃいストーブと、ファンヒーターはあったかないかぐらいですね。それでなんとか頑張ってもらってやってました。そのトイレだけはいつ汲み取りしたか分かんないから、溢れちゃうと困るんで、こんな風にしてくださいねって。みんなが寝静まった頃、俺行って、そのビニール袋を回収して、新しいビニール袋置いてっていうものをやりました。たった2日だけだけどもね。職員と、米どうしますか、じゃあ、まだまだ大丈夫なのでそうやってつくってちょうだいねって、絶対不満のないようにって。もし、何かあるんだったらば、野菜持ってくるのでそれで汁物つくってみたりとかってしてくださいねって言って、またお願いして戻ってきて。精々2日でしたね。3日目かな、緊急事態ですよね、もう入れないようにと。津島にも入れない。もっと西に行ってちょうだいねってなったんですよ。我々が情報を得た瞬間にもうみんなも情報入ったんだよね、そん時は。集会所行ったらば、少しずつ人はけてったからね、いなくなっちゃってたからね。

インタビュアーA:その情報入った時は、津島も避難してくださいとか危ないですみたいな。そういう時にはどういう。

紺野さん:町から区長全員集めてちょうだいねって入ったのが15かな、夕方入って、もうこれ以上危険なので、もっと西に避難してくださいよって。今、町長は二本松に行って避難できる場所を確保してる、交渉してますのでって言ってたんですよ。そんな情報入ってたのかな、みんなに。次の日が朝の9時くらいだかに行ったらば、半分の区長もいないんですよ。

インタビュアーA:もう行っちゃったんですね。

紺野さん:もう行っちゃったの。実はこんな風なチラシをつくったので、これを住民に配布してくださいねって言われたの。いる人にはいるし。もし、自力で行けない人はマイクロバス出すのでこれに乗っかってくれように案内してくださいねって、ただ、マイクロバスまではなんとか、区長、送り届けてくださいねっていう約束して、はい、分かりましたってなってました。2人かな、自力で来れなくなったからっていって、マイクロバスまで送ってったのを見た。あの日は雪降って寒い日だったんだけどもね。津島だけで10センチぐらい降ったもんね、あの時。

インタビュアーA:雪が。津島はもっと降ったんだろうなと思いますけど。あっちでもフリましたからね、浜でも。

紺野さん:うん。降る時は、もう、集会所には何人、車だけあってほとんどもぬけの殻だったね。我々、区長会やって戻ってきた時には。でも、意外とさっぱりと、小ざっぱりしてたな。ちょびっとだけ掃除したっていう雰囲気があったね。

インタビュアーA:その後からどうされたんですか。区長としてあちこち色々手配して。

[00:05:02]

紺野さん:その時会えなかった人間の中で実は残ってたって人が何人かいてね、後から。

インタビュアーA:残ってたっていつまで。

紺野さん:分かんないくらい。

インタビュアーA:分かんないぐらい。

紺野さん:その情報が入んなかったていうか、2回、3回行ったんだけども会えなかったんですよ。僕は、その人が実はその後1ヶ月いたとかっていう噂だったな。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:そんな情報もらわなかったって。

インタビュアーA:いますよね、たまに。知らなかったって。

紺野さん:そうそう。じゃあ、あの地震の時どこにいてどうやって帰ってきたんだとかってんだけども、いたんですよ。これは余談だけども、あの9月11、うちは15か、親父はそのまま税務署まで確定申告に行ったんですよ。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:俺は今日は絶対やってないよって言ったの。

インタビュアーA:揺れの後に行ったんですか。

紺野さん:そう。

インタビュアーA:ですよね。

紺野さん:うん。金曜日だから、金土日だから月曜日か火曜日に電話は通じねってんだから当たり前だべなって思ったんだけども。

インタビュアーA:行ったんだ、わざわざ。

紺野さん:だって、今日までしかねーじゃんかって。明日までしかって。俺は、行ったってだめだよって言ったの。行ってきたんだ原町まで、そのまま税務署まで。

インタビュアーA:閉まってましたか。

紺野さん:当たりめーだね。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:馬鹿だろって。

インタビュアーA:すごい偉いなって思います。

紺野さん:偉いとしか言えねーよな。絶対今日はやってないよって。携帯は我が家だけは通じたんですよ。我が家までは。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:そっから東側は錯乱状態。話によると、集中しちゃって各中継機がブレーカー落っこったんだべっていう。たまたまうちは中通りの電波きたんですよ。二本松とか三春とかの電波がきてたって事だった、あそこら辺。あれご存知でしたっけ、うち。

インタビュアーA:コニシさんに、前。

紺野さん:ここら辺だよってね。そうなんです。

インタビュアーA:でも、どれか分かんない。

紺野さん:たまたまきてたの。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:はい。後からですね、本当に、メールが一番いいよっていうのが分かったのは。面白い事に、知り合いが電話機持ってきて実は息子に連絡したいんだけども、この電話機にしか番号が入ってねんだっつうんだよ。電話機に電源入れて、自分家電源入れられないから、平場の家だったんですけども、電源入れたらば息子の電話番号ついて、これで、じゃあ、かけてみるわって。広島だったんですけども一発で通じたの。近場よりも逆に向こうに遠くに一回かけて、そこからこっちにかけたほうがもしかすると通じたかもしんないですね。福島県だから福島県の中だけでは電波だけがうんと錯綜しててかかりづらいっていうのが後から分かった。そして、同じメールが3回も4回も続いて。

インタビュアーA:なりますよね。それは大事ですよね。

紺野さん:そんな事があって、取り敢えず、15日はそういって、でも、段々と状況が厳しいよってなったんです。これ、みんなして避難しなきゃダメだって。うちも、じゃあ、親父おふくろ、4月の田植えまでちょびっとどっかへ行ってきたらって話したんですよ。それまでに落ち着くだろうからって簡単な気持ちで。

インタビュアーA:自分は残ってご両親をって事ですか。

紺野さん:いやいや。そんな事もなかったんだけど、自分もその後にどっか避難するわって。

インタビュアーA:先行っててって感じで。

紺野さん:そうそう。嫁の実家が郡山にあったので、俺はそっちに行くからみたいな事で、親父おふくろは、取り敢えず、埼玉にいる息子か、八王子の先だっけかにいる娘のとこに行ったらいんでねーのって言ったの。じゃあ、そうするわって。おふくろ親父、次の日送り出して、荷物まとめさせて。俺は俺で、取り敢えず、嫁が先に先発隊でもう避難してたから嫁の実家に行って。嫁の実家に行ったらば、ああ、そうだ、俺、家に帰って牛に世話しなきゃダメなんだと思って、また戻ってきてたのよ。

インタビュアーA:それは何日に戻ってきたんですか。

紺野さん:その日のうち。

インタビュアーA:16日に戻った。

紺野さん:うん。1人で牛に餌やって搾乳してたらば、逆にね、物音がしなくって、これって平和だなって思っちゃったの。

[00:10:01]

紺野さん:雑踏っていうのかな、余分な音が聞こえないんだよ。川のせせらぎの音と鳥のさえずりくらいしか。なんかこれ平和だねって。明日また様子見ようかねって、次の日また起きて牛に餌やって、乳搾りして、ごはん食べてたらば、なんかもっと平和になっちゃってね。気持ち的にゆっくりになっちゃってさ。

インタビュアーA:原発が爆発したってのは知ってたんですか。

紺野さん:ずっと。だって。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:それは12日のね、夜だっけかに分かったかな。1日の日課としては、5時くらいに起きたらばテレビ点けて原発の状況が必ず出てくるからそれを聞いて、ああ、そうですかって。なるほどなるほどって言いながら、お茶1杯飲んで。

インタビュアーA:結構冷静ですよね。牛のルーティンもちゃんとこなして。

紺野さん:そう。ようやくね、さっきも言ったように、FAXか電話できたんですよ、牛を早期乾乳さしてできるだけ餌と出荷する牛乳の量を減らしましょうねって、少なくしましょうね、そうすると、自分の負担も軽くなるし捨てる牛乳も少なくて済むしって事で、ああ、そうですかって。

インタビュアーA:その時、もう既に捨ててたんですか。

紺野さん:十分捨ててました。

インタビュアーA:そうですよね。来ないですもんね。

紺野さん:来ないからね。バルククーラー回っててもね、電気きてるからって。でも、しょうがねーって全部捨ててました。

インタビュアーA:早期乾乳しようっていった知らせはどっからきたんですか。

紺野さん:酪農組合から。こういう風にやると無理なく乾乳できますよっていうのがFAXからだと思うんだよな。ただ、うちはFAXきたからよかったんだけども、他のところまだ電話とか携帯が入んなかったからそれを文書化して、やってるだろうと思われる酪農家に全部配ったの。

インタビュアーA:紺野さんが。

紺野さん:うん。

インタビュアーA:さすがさすが。

紺野さん:こういう風にしたってちょうだいねって。その時10軒ある中で、1日中家にいたのが俺と、モンマ君っていうのと、石井さんっていう人。あとね、もう1人の石井さんはいたかいないかだよね。

インタビュアーA:どっちの石井さんですか。

紺野さん:石井キヌエさんのほうの。

インタビュアーA:キヌエさん。

紺野さん:旦那さんがいたの。

インタビュアーA:いましたいました。はい。2軒が残ってた。紺野さん合わせて3軒。あとはもうみなさん避難された。

紺野さん:避難して通ってた。

インタビュアーA:通ったって聞いてました。

紺野さん:1日1回だけ餌やって、乳を搾んないでっていった人はいた。

インタビュアーA:配合飼料一気に減らしちゃダメだから徐々に減らしていきましたよね。

紺野さん:ううん。

インタビュアーA:一気に減らしましたか。

紺野さん:一気に。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:そう。

インタビュアーA:粗飼料はそのままで。

紺野さん:そうそう。さっき言ったように、水と電気きてたので、水だけはやれたので牛はさほどストレス感じなかったんじゃないのかな。あれ、水切らしてたら、逆に言うと、ストレス感じてたと思うんだよ。

インタビュアーA:そうですよね。揺れた時は、牛、驚いてませんでしたか。

紺野さん:だと思うけども、入ったらば、さほどじゃなかったな。暴れてるのもいなかったし。

インタビュアーA:普通の顔っていうか。

紺野さん:うん。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:ですね。

インタビュアーA:その後の何日かも別に普通に。

紺野さん:うん。普通にでしたね。

インタビュアーA:そうなんですね。分かりました。結局、留まり続けたんですよね。

紺野さん:そう。

インタビュアーA:いつまで留まり続けたんですか。

紺野さん:6月の19。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:まで津島にいました。何気なく。その前に牛は避難させたんだけどもね。

インタビュアーA:それちょっとお聞きしたいんですけど、例えば、酪農連とかがやってくれたんですか。

紺野さん:避難した人達は避難先で酪農組合に連絡したりこちらから携帯で連絡した時に、まず、職員が動けなかったんですよ、自分家も大変だったろうしね。組合も大変だったんだけども。それがようやく落ち着いてきた1週間か10日くらいにして、そういった、色んなこんな風にしたほうがいいよとか。

[00:15:04]

紺野さん:あと、餌は組合にはあるから、もし、取りに来れるだったらば来てくださいっていう風には言われたんだけど。俺も1回か2回行ったんだけどもさ。そのうち、でも、こんな事しておけないだろって。4月になったくらいからかな、職員がこの津島に、20キロ圏内の牛はもう移動も何もできないので、30キロ圏内、20から30だったのかな、なんとか移動できるんじゃないのっていう事をどっかの文書から引っ張り出してきたんですよ。じゃあ、これ動かせるんじゃないの、津島の人だけはって。国も県もそれに対する指針っていうもの持ってなかったんですよね。自分達も大転げになってる。組合職員が、1人、2人がそれに集中的にその文書読み込んでいって、食品関係だから、食品を移動させるのに何が必要かつったらば、4回のモニタリングに合格したらば動かせれますよみたいなのがあった。4回かな、4週連続だから。じゃあ、それで、俺達は乳出してるから、乳出してそっから放射性物質出なかったらば牛は動かせるべっていう風な事を、まず、県に言ったんですよ。県の職員は、これを、同じことを、今度、国に言ったんですよ。厚生省かどこだか分かんないけど。こういう風に指針書いてあるだろって、書いてある訳だから国も県に対して、うん、だろうねって。そっから県は我々のところっていうか酪農組合に対して、ああ、そうですねって。もしかするとこれで動かせるかもしんないですよっていう風なやり取りを何回かやってて、じゃあ、それは牛乳だよって、牛そのものはどうなのっていった時に、牛そのものを屠殺してみましょうって、肉から出ないか出るかっていうので、我々が、たまたまいた、私と、モンマ君のところと、もう1頭くらい屠殺して肉から出ない事をまず確認したんですよ。それ、もう、1週間か、2週間か、3週間って連続してっていう事をやったんですよ。お互い持ってる牛を何頭かずつ出して。それも4週間だかクリアして、じゃあ、これでもういいよねって。牛乳も出せるし、肉も生体で県内だけだったら移動できますよねっていうお互いの合意を取り付けたんですよ、組合がね。

インタビュアーA:県内だったらっていう条件付きで。

紺野さん:そう。条件です。これが5月の連休明け頃だったのかな。

インタビュアーA:5月連休明けにそれがOKになった。

紺野さん:お互いの合意が取れたんですよ。そっから酪農組合が来て、実はこれで動かせるので、今、避難先も順次あたってて動かせますっていうのを、残ってたっていうか津島の酪農民に説明しました、説明にきたんですよ。じゃあ、こういう風に段取りしませんかって。それが、岩代町にあった南ヶ丘牧場っていう跡地が、たまたま、100頭くらい規模の牧場だったんだけども、そこには搾乳牛は移動できますよって。あと、子牛は子牛で石川のほうに移動できますよっていう風な段取りを少しずつ取ってもらったんですよ。

インタビュアーA:石川。

紺野さん:石川と。

インタビュアーA:石川ってどこ。

紺野さん:石川町っていうのはどこですかって、白河市の東側くらいですね。

インタビュアーA:ああ。

紺野さん:東、北くらい。っていうところ何箇所か見つかって、子牛は子牛で移動して、親牛は親牛で移動して。あと、もし、自分の友達で引き受けてもらえるんだったらそこで移動してくださいねっていうのはあった。

インタビュアーA:それは自分達で探してくださいねって感じですね。

紺野さん:でも、それは本当にこそっとですよ。

インタビュアーA:こそっとなんですね。

紺野さん:うん。

インタビュアーA:なんでこそっとなんですか。県のほうでOKって言ったんじゃ。

紺野さん:これね、OKだって出たんだけども、たまたま、私の友達が山形に移動させた牛いたんですよ。

インタビュアーA:福島県内じゃなくてね。

紺野さん:そう。それはもう早めだったんですよね。

インタビュアーA:出る前に。

紺野さん:出る前っていうか、これは避難しなきゃダメだなって。そしたらば、地域のみんなから非難きたんだって。

インタビュアーA:ああ。

紺野さん:これ被爆してるんじゃねーのって。

インタビュアーA:山形県民から。

紺野さん:県民、周りの酪農民だか住民か。

[00:20:01]

紺野さん:返されてきたっていう牛いましたよ。

インタビュアーA:それで、ちょっと、こそっと。同じ県内であってもこそっとしたと。なるほど。

紺野さん:そういったお墨付きついたとしても、もしかして、自分の出した牛乳から放射性物質出たら大変ですよね。そう思うと、やっぱり、こそっとなんですよ。結果的には出なかったからよかったっていう話で。

インタビュアーA:でも、検査はしたんですもんね。ちゃんと4週間クリアして。

紺野さん:そこで出たのが葛尾と飯舘なんですよ。

インタビュアーA:出たっていうのは。

紺野さん:肉から出たのは。

インタビュアーA:稲わらあげたのやつでしたっけ。

紺野さん:のもあるし、野外飼育してたのもいたんですよ。

インタビュアーA:葛尾と飯舘の。

紺野さん:そっからまた牛乳が出荷制限かかっちゃったんですよ。ダメですよって。

インタビュアーA:それいつですか。

紺野さん:忘れた。

インタビュアーA:その葛尾と飯舘のお乳から出てからすぐかかった。

紺野さん:肉から。

インタビュアーA:肉からね。はい。紺野さんのところは、それまでにはもう移動は済んでたんですか。

紺野さん:いや、してないよ、まだ。津島の牛とか色んなそういった検査と、あと、家畜保健所で牛体そのものの、なんだっけ。

インタビュアーA:ホールボディカウンター。

紺野さん:みたいなのありますよね、cpmとかってやつね。ビビビッて。あれやって、大丈夫ですねっていうのもまた保証書もらってで動かしたんですよ。

インタビュアーA:肉の検査と。

紺野さん:牛乳の検査と。

インタビュアーA:牛の生体ですよね。

紺野さん:牛体の表面からね。

インタビュアーB:ガイガーミュラーカウンターですね。

インタビュアーA:スクリーニング、患者にいつもやってるやつですよね。

紺野さん:人間がこうなんかにあれやった。

インタビュアーA:ああ。

紺野さん:津島の場合は何がよかったって言ったらば、みんな牛舎の中から出さなかったっていう手を取ったんですよ、策を取ったんですよ。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:それがよかったんですね。

インタビュアーA:その時のcpmの値覚えてますか。

紺野さん:全然。

インタビュアーA:分かりました。はい。でも、1万3000cpm以下になってますけど、当時はもうちょっと厳しかったのかな。

紺野さん:どうだったんだろ。

インタビュアーA:牛乳は100ベクレル以下ですか。今は、もう、N.D.じゃなきゃみたいな、福島県は30とかなんとか言ってますけど、当時は、最初はちょっと高かったですよね。和牛の場合400ベクレル以下で、乳牛の場合、確か、100以下だった気がするんですけど。

紺野さん:だったらそれだったんじゃないかな。

インタビュアーA:それで検査して津島は全部OK、合格っていうか大丈夫だったから。

紺野さん:牛だけはよかったんです、だから。牛は動かせますよっていうもの取ったんですよ。

インタビュアーA:牛乳はダメだけどって事ですか。

紺野さん:うん。牛は。

インタビュアーA:牛乳はダメなんですね。はい。

紺野さん:もしかするとかかってるかもしんない。

インタビュアーA:紺野さんは、移動先はその南ヶ丘牧場。

紺野さん:そう。搾乳牛はね。子牛は子牛でさっき言ったような石川町とかそっちのほうに移しました。

インタビュアーA:その話は向こうがつけてくれたんですよね。

紺野さん:そうです。

インタビュアーA:もともとのその移動してもいいんじゃないかみたいのは紺野さん達からあげてったんですか。

紺野さん:酪農組合が道つくってくれたの。ただ、我々は悶々としてただけで。あん時の枝野官房長官が次の策を出したんですよね。制限期間が段々広くなってきてて、5月の何日から、今度、津島入ったここまでを立ち入り禁止とかそんな感じの制限かけますよみたいだったんですよ。その前でないといけないだろうねっていう風な危機感はあったの。人間も牛も移動できないんじゃないのっていう。そこまでになんとかしようかっていう事でやってくれた。それが5月の24日か25じゃなかったかな。

[00:25:00]

紺野さん:酪農家っていうか我々は文句しか言えないから、早く動けって。

インタビュアーA:はい。そういう文句は言ってたんですか。酪農組合に、文句っていうか意見ですよね。

紺野さん:聞こえるところは少ないからだから、逆に言うと。固定電話はダメだったのかな。携帯はダメですよ、私以外のところは。携帯からかけてる人は絶対かかんない、組合の職員には。どうなんだろ、固定電話かかってたのかな。たまたま、うちは。

来客者:小さいほうのバルク、あれサーモが悪いみたいなんですよ。交換していいかって。

紺野さん:十分十分。

来客者:なんか7万ぐらい。

紺野さん:直しいかんな。

来客者:あと、こっちのバルクはパルスも何も入ってないけど、ちょっと分かんない。

紺野さん:Eの04だとか、Eの05って出たんだよって昨日話した。

来客者:Eの04とか05。

紺野さん:うん。冷却時間がかかりすぎますっていう。それだけ言ってください。

来客者:いや、ガスは入ってるっていう話で、ただ、型が古いから冷却能力が落ちてんじゃないかっていう。それは劣化してくるっていう話だったんで。

紺野さん:それまでなんとも言えないってやつだね。分かりました。

来客者:Eの。

紺野さん:04か05。

インタビュアーA:すいません。お忙しいとこ。

紺野さん:いえいえ。

インタビュアーA:紺野さんは、結局、5月25日以降に。

紺野さん:5月の20日前後に津島の人全部引き上げさせて移動される事はできたんですよ。

インタビュアーA:20日ですね。

紺野さん:20日前後ですよ。ちょっと忘れたけどね。

インタビュアーA:分かりました。はい。

紺野さん:大移動させたんですよ。

インタビュアーA:8000ベクレル以上の牛は殺処分とかそういうのはあった。

紺野さん:ない。うちはない。うち達の友達はない。

インタビュアーA:はいはい。

紺野さん:野に離した牛はいたんですよ、誰かは。それは知らない。

インタビュアーA:分かりました。移動された時、移動が完了した時はどういう気持でしたか。移動するまでの気持ちとか、移動が完了した時。

紺野さん:移動する前はお祭り騒ぎです。

インタビュアーA:ん。

紺野さん:お祭り騒ぎ。やるぞっていう気持ちだけです。

インタビュアーA:はいはい。

紺野さん:移動し終わったらば、これで1つ、一段落だねっていう。

インタビュアーA:一段落ですよね。

紺野さん:泣きの涙で送り出した人もいるけども、出せただけ我々としては、経営者っていうか畜主としての責任果たせたっていう思いがあんですよ。見殺しにしなくてよかったなっていう。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:それは全ての、我々の仲間としての共有した意識だったね。生かして出せたっていうのは。

インタビュアーA:そうですよね。自分のところであれじゃないですもんね。

紺野さん:うん。友達1人ちょこっといたんだけども。

インタビュアーA:そうなんですか。

紺野さん:なんで避難しねーんだつったらば、だって、牛死んだ牛舎に戻ってくんの嫌だもんって言ったやついたんだよ。

インタビュアーA:うん。

紺野さん:牛の死んだ牛舎に戻ってくるの嫌だべって言われたの。それは嫌だなと。だって、10キロ、20キロの圏内の人はみんなそうだよ。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:その思いしてたらば、我々としては、最善か最高だか分かんないけども、できる事だけはやったなっていう思いはある。

インタビュアーB:津島で牛飼ってて避難した人は誰もいなかったんですか。

紺野さん:いましたよ。

インタビュアーB:その場合は、牛の面倒見とかはどういう形に。何か分担してお手伝いというか。

紺野さん:いや、親父か嫁さんかが1日1回餌やり。でも、本当にね、全く、1週間来なかった、もう、行ったまんまでっていうのは1人だけいました。

インタビュアーB:牛、1週間ぐらいだと大丈夫でしたか。

紺野さん:水が出たから大丈夫だったんですよ。

インタビュアーB:ああ。

インタビュアーA:水が出ればね。

紺野さん:水が出たから。

インタビュアーA:水ないともうあれですもんね。

紺野さん:うん。餌はなくても。水だけは大丈夫でした。

インタビュアーA:餌のストックはあったんですか、いっぱい。

紺野さん:意外とあったんですね。思った以上にあった。

インタビュアーA:思った以上にあった。

紺野さん:配合も途中から、酪農組合に取りにきたんだけども、配合なんかもうやめたっていいよって言われたらば、2階に置いといた藁とか、ロールにしておいた草とかってやってた。ロールにしておいた草だけどもラップしてあるからいいべくらいの話だけどもね。

[00:30:05]

インタビュアーA:ラップされても大丈夫なんですけど、何ヶ月分ぐらいあったんですか、餌は、ストック。5月20日までは持ってたって事ですよね、2ヶ月ちょい。

紺野さん:持ってたね。何気なく持ってましたね。

インタビュアーA:水も止まらないから問題なく。

紺野さん:問題なく。

インタビュアーA:電気もきてたから問題なくだったんですよね。

紺野さん:はい。

インタビュアーA:発電機は、ちなみに、お持ちだったりとかしてましたか。

紺野さん:してました。

インタビュアーA:三相200v。

紺野さん:全然。それは。

インタビュアーA:普通のちっちゃいやつ。

紺野さん:うん。

インタビュアーA:100vですね。

紺野さん:電子レンジ動かせるくらいですよ。

インタビュアーA:なるほど。もし、電気がきてなかったらすごい困ったですよね。

紺野さん:ですよね。考えただけで嫌ですね。

インタビュアーA:嫌ですよね。ここは、今、電気こなくなったらどうなるんですか。

紺野さん:その後に酪農組合自体で各支所体で大きな発電機買ったんですよ。用意したんですよ。なので、一番いい時期ではこないだろうけども、1日のうちにどっかのタイミングで持ってきて搾乳したり水やったりする事はできます。

インタビュアーA:そうですよね。回してね。

紺野さん:そうそう。ここくらいの規模くらいまでできるだけのものを買ったような気がする。

インタビュアーA:最大の規模の農家に合わせて買ったっていう。

紺野さん:最大ではないけども。

インタビュアーA:最大じゃないんですか。

紺野さん:最大ってこんな最大じゃないです。

インタビュアーA:そうですか。

紺野さん:ええ。

インタビュアーA:牛を歩いて移動はできたんですか。

紺野さん:移動っていうと、どこで。

インタビュアーA:家畜車で移動したと思うんですけど、紺野さんが自分でホイホイって。

紺野さん:そうそう。

インタビュアーA:まあ、慣れてますよね。

紺野さん:いや、慣れてはいなかったけども。できましたね。

インタビュアーA:そうですか。牛は特に怖がったりせず。

紺野さん:ですね。あの日はたまたまとっても天気良くて、ちょっと汗かくかなくらいの陽気でしたよね、あの5月の20日前後っていうのは。良い日でしたよ。

インタビュアーA:最後に見た牛の状態は健康的。

紺野さん:ですよ。全部。最後に見た牛って、実は、その避難先、さっき言った二本松の南ヶ丘牧場なんだけども、そこに行っても100頭近くの牛全部見てたんですよ、世話してたんですよ。

インタビュアーA:紺野さんが。

紺野さん:そう。

インタビュアーA:そうなんですか。

紺野さん:避難させましたって、ここに100頭くらいの牛いますって、じゃあ、これ誰面倒見ますかってなったのよ。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:ですよね。

インタビュアーA:南ヶ丘牧場は経営的にやってなかったっていう。

紺野さん:いや、爆発した瞬間に全部避難させたんですよ、那須のほうに。

インタビュアーA:南ヶ丘牧場が空になったから入ったって事で。

紺野さん:那須に行っちゃったので牛舎空きましたよっていう事。

インタビュアーA:じゃあ、そこで。

紺野さん:我々の牛預かってもらえませんかって言って預かってもらったの。預かってるじゃないな、敷地だけ貸してくれたんですよ。

インタビュアーA:間借りしたみたいな感じですね。

紺野さん:そうそう。その時言われたのが、牛は入りました、じゃあ、誰が面倒見ますかつってたら、ここから近いの誰つったらば私のところなんですよ。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:ものの20~30分で行けたんですよ。

インタビュアーA:なるほど。

紺野さん:岩代町まで。じゃあ、俺面倒見るわつって。もう1人福島市内に避難してたやついるんだけども、しょうがねー、ヒロシ君1人じゃ大変だべからって俺も来てやるよって言われて。

インタビュアーA:2人で100頭の世話をしたんですね。

紺野さん:そうです。

インタビュアーA:二本松から20~30分、すごい近かったんですね。

紺野さん:うん。近いです。

インタビュアーA:最後に見たのは津島じゃなくて二本松って事ですね。

紺野さん:そうそう。ここでも7月の5日か6日までしか預かってなかったんだけども、それが最後ですね。

インタビュアーA:二本松で。

紺野さん:うん。預かってたのは。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:当初はずっと預かってこうかと思ったんだけども、乳も搾れないし、日々の餌代はかかるし、次に再開するって言うんだったらば、そのまま牛またみんなに配れるんだけども、再開できる目処あんのっていった時にない訳ですよ。

[00:35:10]

紺野さん:新天地で牛舎建てられる訳でもないし。そういうのが段々、少しずつ現実化してきたんですよね。だったらば、ここで一回線引いて、申し訳ないけども牛一回処分しようっていう決断に至りました。逆に言うとあれは、牛出すよりも結構みんなつらかったんじゃないかな。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:ようやく手塩にかけてここまで組み合わせして血統考えながらつくってきた牛なんだけどもっていうのはあった。

インタビュアーA:乳搾れないっていうのは、もう、福島県全域でだったから。

紺野さん:そうそう。それはいいんだけど。まあ、よくはないけども、あん時だね、もうこれで我が家系統は終わりだなって思ったのが梅雨入りかもしんないな。子牛は子牛で競り場でみんなに買ってもおうって。親牛は親牛で名簿をつくって生年月日と、年齢と、産次数と、もし腹に入ってるんだったらば、妊娠何ヶ月かっていう、そういったものをランク付けさせて一律に、3歳で腹ん中が5ヶ月で和牛入ってたらば5万とか10万っていう。一律つけちゃったんですよ。これで、どうぞ買ってくれる人いませんかっていう風な名簿の売買やったんですよ。

インタビュアーA:安いですね。

紺野さん:うん。たまたま文句言ってきた人いたんですよ。

インタビュアーA:何に文句を言えるんですか。

紺野さん:高すぎるって。

インタビュアーA:これで。

紺野さん:ざけんじゃねーつったりましたよ。

インタビュアーA:どこの県の人ですか。

紺野さん:だから、福島県しか動かせないんですよ。

インタビュアーA:福島県内でもそんな。

紺野さん:そう。

インタビュアーA:そうですか。

紺野さん:ざけんじゃねーこの野郎つったの。何人の足元見やがってんだつって。

インタビュアーA:二束三文であれなのに。

紺野さん:ってな事をやり取りしましたね。

インタビュアーA:なるほど。

紺野さん:そんな噂聞こえだしてきた瞬間に。

インタビュアーA:ありがとうございます。あの時は無理だったけど、今、もし考えたとして、こういうのがあったらよかったなとか、もう少しこうだったらよかったなみたいなそういうのありますか。

紺野さん:それは何に対して。

インタビュアーA:牛関係で、避難が5月20日に全部させられたっていう事だったんですけど、もしそういう道がなかったとしたらとか、もうちょっとそれが早かったらとか、何か次の災害の時、災害が起きるかもしれないと私は思ってるんですけど、あちこちで、その時に何かしらその農家さん達が学べる事ないかなと思ってて。水が、紺野さん自分が、お父様が修理できてて、何か必要な事、電気はありましたけど、発電機は必要だなとは、私も今聞いてて思いましたけど、他に何か、例えば、そういうものでもいいし、事でもいいし、行政とか、組合とか、災害が起きた時にどういう動きをもうちょっとしてほしかったとか、あとは、自分でこういうものは備えてほうがいいと思いますみたいなそういうのありますか。

紺野さん:昔っからそうだったんだけども、今言えば、行政には頼んないほうがいいっていうのは、あの時はっていうかいつだってそうなんだけども、阪神大震災の時にたまたま聞いてて、クロード・チアリさんが神戸の芦屋だっけってとこに住んでんですよ。

インタビュアーA:誰がですか。

紺野さん:クロード・チアリ。ギターリストの。芦屋だっけ住んでんだよね。クロード・チアリさんが言ってたんですよ、テレビの番組の中で、私のとこに誰も1人も来なかったよって、私こんなに困ったんだよって、って思った時に、あのよ、役場職員だって、市役所職員だってスーパーマンじゃねーんだって、同じように震災だろって。

[00:40:11]

インタビュアーA:被災者ですもんね。

紺野さん:そう。それでも来たんだよって。火事やったらば、火事場に消防車行ったんだよって、警察は警察で行ったんだよって、なんでそれ理解できないのって、同じだろって。我が家だけが火事だったらばそれは分かるよって、違うだろって、震災だよっていう。

インタビュアーA:ですよね。

紺野さん:っていうものをいつも思ってる。震災は違うんだよって、次元がって。なので、誰かを頼ろうと思わないほうがいいと思った、震災だけは。

インタビュアーA:そうですね。

紺野さん:これが水害だとか火事だったら違うと思う。誰かがなんとかしてくれって言ったっていいと思うけども震災は違う。なので、思わない。ここにきて特にそうなんだけども、自分の生きる力を身に付けないといけないですね。

インタビュアーA:そうですね。

紺野さん:水道の修理だってそうだけども、電気の1個くらい付けられるか付けられないか。極端な話、これ球切れましたって、球が目の前にありますって、でも、それ付け方が分かんなかったらばアウトですよねって事。

インタビュアーA:そうですね。

紺野さん:うん。たったそれだけですよ。もっともっと、日々の生きる力っていうものを付けたほうがいいと思うって思った。ここにきて、逆言えば、もっと思ったね。

インタビュアーA:ここにきてもっと思った。

紺野さん:思った。

インタビュアーA:ああ。

紺野さん:前は30頭しか、40頭かしか飼ってないからなんとか我慢してくれって言って、明日ねって言うんだけど、ここ100何十頭いると、明日ねって言えないんですよ。水道止まりました、じゃあ、ちょっと、明日まで我慢してねって。今日、今、目の前でできる事って考えざるを得ないんですよ。そうすると、場内にある何か使って水出す算段しましょうかとかっていう事を、ここに勤めて9年ずっとそればっかり感じてきた。という事は、この場内何があるかとかそういったものにいつでも隈なく目配ったりだとかしてきて、あそこに何かがあったな、あそこに行くともしかすると、っていうのが分かった。

インタビュアーA:常に備えてるって事ですよね、頭の中で。災害が起きてなくても。

紺野さん:備えてはいないけども、気に留めておく。

インタビュアーA:何がある、何があるとか。

紺野さん:うん。そんなのがありましたね。

インタビュアーA:すごい大事な事だと思います。ちなみに、牛の避難先ってどれくらいまでの距離だったら通えると思いますか。または人の避難先。前、通ってましたよね、その5月20日まで、住む前の。

紺野さん:ここで来るのに、高速だから30分ぐらい来れるけども、もし一般道だったらば、その倍近くはかかるよね。

インタビュアーA:1時間。

紺野さん:うん。精々それくらいまでですよ。

インタビュアーA:通うのは1時間くらいまでですね。

紺野さん:でも、通いたくない。

インタビュアーA:1時間、ちょっときついですよね。30分ぐらいだったらって感じですか。

紺野さん:ギリギリぐらいかな。でも、通い酪農は嫌だね。

インタビュアーA:前、ご自宅の目の前にあった訳ですよね。超楽でしたよね。家からその牛舎まではどれくらいの距離だったんですか。

紺野さん:50メートルくらいですね。

インタビュアーA:分かりました。楽ですよね。歩いて行ってたんですもんね。

紺野さん:歩いてできるからね。牛やって、畑やって、田んぼやって、要職っていうか行政区長やったり、体育協会の会長やったり、保存会の事務長やってたりしてても。昔ね、これは余談だけども、酪農雑誌は3つ取って3つ読んでたし、新聞も読んでたし、業界紙っていうのかな、読めてたんですよ。今、読もうかと思うと、寝るほうが早い。

インタビュアーA:ある程度頭に入ってるからとかじゃなく。

紺野さん:違う違う。開いた瞬間眠い。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:悲しいくらい。

インタビュアーA:何が。歳とかそういう事ですか。

紺野さん:通勤だけで疲れる。

インタビュアーA:確かに。

[00:45:00]

紺野さん:作業は一緒なんですよね。来て、作業は一緒だけども、なんかね、通勤だけで疲れる。

インタビュアーA:分かります。

紺野さん:アパートに戻って、風呂入って、ごはん食べた瞬間に眠くなりますよ。悲しい世界ですよね。

インタビュアーA:すごい分かります。

紺野さん:俺、こんな事やるために生きてきたんじゃねーんだよって時々思うの。

インタビュアーA:ご自身の津島の、代々何代目とかあるんですか、紺野さんは。開拓じゃなくてその前からいましたよね。

紺野さん:いましたよ。

インタビュアーA:何代目なんでしたっけ。

紺野さん:分からない。

インタビュアーA:分からないと。そういう回答初めて聞きました。

紺野さん:分かってるだけで7台です。

インタビュアーA:分かってるだけで7台と。はい。本当、ご先祖様からの土地みたいな意識も強いんですか。

紺野さん:強くはないですね。たまたま良いところにうちはあったなっていう思いはある。

インタビュアーA:津島でこの広さってすごいですよね。

紺野さん:いや、標準ではないけども。

インタビュアーA:広いと思いますけど。

紺野さん:ほぼ似たようなもんですね。ただ、やって楽しいんですよ、その土の匂い嗅いでて。たまたま良いところで先祖様が育ててきた土なんだろうね、土の匂い嗅いだだけでいいんですよ。春先にプラウかけると土の匂いがバーッと、あれが好きなんだ。

インタビュアーA:肥えた土だったんですね。

紺野さん:いや、痩せた土地。半分。痩せてはいないな、赤土なんだけども。

インタビュアーA:でも、飼料作物をつくるには良い土だったんですね。

紺野さん:ですね。ですねじゃないけども、良いですね。ちょうどいい雨だったのかな。

インタビュアーA:助け合える仲間の存在とか、その酪農組合の人達みたいな感じですか。

紺野さん:はい。

インタビュアーA:情報共有とかもそこでやってたですかね。

紺野さん:俺自身が津島で酪農やれたのと今日まで酪農やれるのは、その残った10数人いたからです。彼らなかったらば途中で挫折したかもしんないですね。たまたま、その津島っていう集落の中に、当初は50軒か100軒くらいあったって言うんですよね、開墾やってて入った人は。でも、そこから段々、凝縮っていうか、1抜け2抜けして、私が津島のその酪農青年組織みたいなのが入ったのが昭和50、戻ってきてからだから、58年くらいだったのかな。そこにはまだ15~16人残ってたんですよ。20人くらいだったのかな。その仲間は、良いにつけ悪いにつけ、酪農の話はする、世間の話はする、酒飲みの話はする、とっても良い勉強になったんですよ。あれがなかったら酪農なんてものに興味持たなかったかもしんないですね。面白いくらいに牛に対しての思いを持ってるやつもいれば思わないやつもいて、それって、やっぱり、喋っててもそれは生活の質とか目的としての牛なのか、目標としての牛なのか、どこにそれを持ってくるかっていうそいつらによって全然違うんだけども、最終的には牛なんですよ。牛っていう共通話題があって楽しく喋られるんだよ。

インタビュアーA:石井さんから飲みの話題が牛だって聞いて。夜な夜なみんなで集まって牛について語ってるって。

紺野さん:そうそう。

インタビュアーA:本当に津島ってそういうエリアなんだなって思いました。

紺野さん:自分が求めてる牛1頭つくるのがそれを目標として生きてるやつもいるよ。そいつの話聞くと、牛だけの話だから面白くねんだって思うんだけども、やっぱり、そっから得るものはあるんで。だから、誰も馬鹿にしないし話についてかない訳じゃないんだけども、やっぱり、こっちかでは、いや、俺は豊かな生活をするために、今、牛によって金得てんだっていうやつもいる、それはそれなんですよ、でも、それはそれでも、じゃあ、一番良い状況の中で牛を飼えるのはどうすればいいんだってとかって思う訳ですよ。

[00:50:08]

紺野さん:牛にとってどんな環境が良いのっていうのも、彼らの中で、あの津島の酪農家はみんな思ってたの。不思議と。今、それが分かるのが、ここに来て他の違うところの世界の酪農家と喋ってるとないんだ。何、ここの人達はって。

インタビュアーA:やっぱ、また文化が違うんですね。

紺野さん:違うんだね。逆に言うと、ここに来てうんと悲しくなってくる。

インタビュアーA:なるほど。

紺野さん:もう少し牛っていうものを核として話できないのかいって。

インタビュアーA:本当、津島の文化っていうのがすごかったんだと思います。飲みの話題がいかに。

紺野さん:いいなと思う。だから、あの組織なかったら本当にやってなかったです、俺は。たまたまですね、10歳くらいの間に20人がボロッといたからだよね。

インタビュアーA:そうなんですね。同世代が。

紺野さん:そう。石井さんを筆頭にして、一番若くて、離れてても15くらいかな。

インタビュアーA:なるほど。

紺野さん:中心くらいが俺くらいだったんだよね。

インタビュアーA:本当に牛飼い仲間って感じですね。

紺野さん:本当、そうそう。面白いのは、年に数回は必ずどっかに研修に行くべって。それも泊まりに行けたんですよ、まだ親が元気だった頃はって。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:あちこちに行って見聞を広めてきたっていうのはよかったんだよ。

インタビュアーA:北海道も、確か、行ってましたよね。

紺野さん:行きました。雪まつりが見聞なのかは分かんないけど、雪まつりも行きましたよ。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:でも、よかったな本当に。あそこで得た研修、みんなで行った研修とか、どっかで研修聞きました、その話どんななのっていってここで喋ったってそれも楽しいし、酒飲みながら。俺、この間、こんなとこでこんな事喋ってきた、話聞いてきたんだとか、俺が読んだ中での以上の知識が誰かが持ってるんですよね。

インタビュアーA:すごいですね。

紺野さん:そう。

インタビュアーA:それは楽しいですね。

紺野さん:楽しいんだよ。

インタビュアーA:追求していこうとするとね、色んな。

紺野さん:読む人によってはこの枠外を読める人間もいるんですよ。文字だけ書くんじゃなくて。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:そういったのが、たまたま、俺の友達にいたんだよ。

インタビュアーA:なるほど。

紺野さん:あれはよかったな。

インタビュアーA:みなさんで切磋琢磨してみたいな感じだったんですね。

紺野さん:誰一人とも抜け落とさないみたいな部分もあったし。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:うん。

インタビュアーA:そんな感じします。1人抜け駆けしようとかそういう事じゃなくて、みんなで底上げっていうか。

紺野さん:そうそう。

インタビュアーA:子孫というか、未来へのメッセージというか、何かそれを最後にお願いしたいんですけど。

紺野さん:この間ですね、言ったのが、人生一寸先は闇、だから怖くておもしれーっていう言葉を言ったんです、この間、取材の時は。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:そうだよねって思うか思わないかですよ。

インタビュアーA:怖くて面白いなんですね。

紺野さん:言葉として好きだった言葉は、臨機応変ってあんですけども、行きあたりばったりっていう解釈する人もいますけども、私としては機に臨みて変じて応ずるっていうのができるかできないかっていうのは、その人の知識だけじゃないんですよね。

インタビュアーA:能力ってか。

紺野さん:もあるし、経験もあるし、どっかで見たなっていう部分もあるんだろうね。本読んだだけでもないし。それを活かせるか活かせないかっていう、そこを今の若者っていうか次の人には持ってほしいな。

インタビュアーA:それがさっきおっしゃってた、生き抜く力というか。

紺野さん:じゃないのかなって思う。あと、もう1つ好きな言葉に、一見は百聞に如かずってありますよね、あれの続きがあるんだそうでっていうのが聞いた事あったんですよ。

[00:55:01]

紺野さん:調べたらば、一験は百見に勝るとかって。一見は百聞に如かずですよね、100回聞いたのよりは1回見たほうがいいよっていうあれですね。1回の経験は100回見たよりにも勝るって言うんですよ。

インタビュアーA:そっちの経験ですね。

紺野さん:はい。そうだよなって思ったんですよ。

インタビュアーA:そうですね。

紺野さん:知らない事ばっかりですよ、全て。私だってまだまだ知らない。でも、知らない事だからってそれで終わちゃったらば終わりなんですよね。その先に行かないんですよ。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:行くためには何するかって言ったら、やっぱり、経験なり。まず見る事なのかな。知る事から、見る事から、そして経験する事ですよね。そう思います。

インタビュアーA:そうですね。そうだと思います。私もやってみて初めて分かる事がいっぱいありすぎて、本とか何とかよりもビックリしてる事あります。経験すると、自分が経験してるからこれが事実だなって分かるし。

紺野さん:そうそう。

インタビュアーA:毎日学びですね。

紺野さん:ですね。農業高校出てきて50年間生きてきたっていう人、鎌の研ぎ方知らないっていう人いるんですよ。あ、釜研げる、こうやって。

インタビュアーA:ああ。

紺野さん:俺、それ見た時に、こいつ何年生きてきたんだと思っちゃったよ。鎌ありましたとして、そろそろ切れなくなったから砥石買ってきて研いてみたらつったの。まず、砥石が買えないのよ。どんな砥石買ってくればいいのから始まんの。

インタビュアーA:私も最初分かんなかったですよ。地主さんに教えてもらって。

紺野さん:こういう砥石ってあるはずだから買ってきてみそって。

インタビュアーA:研ぐ向きとかね、ありますもんね。

紺野さん:そしたらば、その刃の持ち方が分かんないし、砥石の持ち方も分かんないんだよね。自分はこの道50年だって言う百姓なんですよ。お前何を今までやってきたんだって。俺は中学校1年生の時から刃砥いでっぞって。

インタビュアーA:やんない人はやんない。私もやんなかったから、最初。やり方教わって、ああ、なるほどって思いましたけど。

紺野さん:いやいや。草刈りは。

インタビュアーA:鎌ですもんね。

紺野さん:鎌で小学校5~6年生からやってんだよ。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:それが基本だろうが、百姓の。

インタビュアーA:動きが生粋の農家さんと全然違うんですよ。それはね、本当にいっつも悔しい悔しいって思ってて、ずるいなって思ってました。農家の人、本当ずるいって。

紺野さん:あっそう。

インタビュアーA:うん。体で覚えてる。言わなくても、いや、これこうでしょうっていうのが分かるんですよね、その先がスーッて。ずるいなっていつも思ってます。ほしいけどそんな簡単に入るものじゃなくて、説明してくださいって言っても説明できるもんじゃない、体に染み込んでるって言って。

紺野さん:かもしんないですね。あと、今、俺、こうやって一生懸命喋ってんですけども、基本的にあんまり言葉数多いほうじゃないんですよ。

インタビュアーA:そうですね。

紺野さん:それはなんでかつったらば、おふくろに、ある程度大きくなってきたぐらいからかな、1聞いたら10知るくらいの頭を持てって、それ度々言われてたの。

インタビュアーA:お母様が立派ですね。

紺野さん:だから、10聞いて初めて1知るような事してんでねーぞって、それ度々言われてたの。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:その前に、1聞く前に自分は10くらいの、それに合うだけの知識とか経験を持って初めて聞くんですよ、おふくろに。これどうなのって。これこうだからって、そこでようやく、全部は分かってんだけども、敢えて聞くんですよ。

インタビュアーA:立派な息子さんに育ちましたね、お母さん。それでお母様にグウって言わせた訳ですよね。

紺野さん:さっきのね。さっきの話ね。

インタビュアーA:嬉しかったと思いますよ、お母様も。

紺野さん:いや、この野郎と思ってるよ。

インタビュアーA:でも、一緒になって喜んでた訳ですよね。

紺野さん:うん。

インタビュアーA:隣なんて多いぞとかって言って。

紺野さん:してやったりですよ。

インタビュアーA:嬉しかったと思います。成長して。自分を超えたなってなりますよね。

[01:00:00]

紺野さん:超えてなんかいないと思うけども。

インタビュアーA:謙虚ですね。ありがとうございます。これは是非、他の人達に、みんなに聞いてほしいです。災害の時だけじゃなくても役立ちますよね。人生歩んでいくのにそういう姿勢ってすごい大事だなって思います。ちなみに、牛って名前付けてはいるけどその名前では呼んでないですよね。

紺野さん:絶対呼ばない。

インタビュアーA:絶対呼ばない。

紺野さん:絶対呼ばない。

インタビュアーA:そうなんですね。分かりました。

来客者:水、あれらしいんですけど。

紺野さん:タンクだけ交換してって。車だけ。

来客者:車だけ交換で。

紺野さん:はい。お願いします。

インタビュアーA:すいません。長くなっちゃって。

紺野さん:いえいえ。

インタビュアーA:ありがとうございます。すごい良いものが撮れたと思います。ちなみに、家畜車っていうのは酪農組合のほうで手配してくれたんですか。

紺野さん:当時ね。そうです。

インタビュアーA:そこに乗っけるのは、紺野さんが乗っけたんですよね。

紺野さん:そうそう。

インタビュアーA:普通の他の農家さんでもそれはできるもんですか。津島の人達はみんなできますよね。

紺野さん:全部できるよ。普通の出荷と一緒だからね。

インタビュアーA:普通にロープ付けてホイッて感じですよね。

紺野さん:そうそう。

インタビュアーA:分かりました。ありがとうございます。

インタビュアーB:酪農組合は、県内の空いてる牛預かってくれそうな受け入れ可能な場所をバーッと探したって感じなんですかね。

紺野さん:そうですね。あの少ない時間のなかで。

インタビュアーB:偉いですね。それはね。

インタビュアーA:たまたま、その避難する前までね、使ってたとこだからバルククーラーとかも全部。

紺野さん:うん。だから、搾乳したやつまるっきり残ってたんですよ。ただ、ガンジーっていうちっちゃい牛だったんですけども、それ入れるためのだったのちょっと違ったんだけども、まあ、取り敢えず搾乳はできたのでよかったでした。

インタビュアーA:そういう共同牧野みたいなところって、農水省の原田元畜産部長にインタビュー行ったんですけど、東北には結構あるって聞いたんですけど。

紺野さん:ありますよ。

インタビュアーA:福島にもありますよね。

紺野さん:福島にもありました。吾妻開発パイロットとかなんとかっていう。この辺りだっていえば、なんとかスタジアムってありますよね。

インタビュアーA:はい。

紺野さん:とうほう・みんなのスタジアムの。あのちょっと西側にあるんですけども、あったんですよ。

インタビュアーA:はい。でも、やめちゃってるんですよね、震災前に。

紺野さん:いや、震災後かな。

インタビュアーA:震災後にやめたんですか。

紺野さん:後ですね。

インタビュアーA:放射能の事で。

紺野さん:じゃないかな。もう置けないっていうか野外飼育もダメだし、野外で取れた草もダメだっていうのもあるしね。

インタビュアーA:田村市でもあったんですけど、あと富岡とかにもあったんですけど、震災の前に閉場、やめてて、富岡場合はマダニ被害でやめちゃってて。でも、今、薬あるじゃないですか、前教えていただいたバイチコールとかアイボメックもそうですけども。あっちの田村市のほうは採算が取れなくてか何かしんないけどやめちゃったみたいな事言ってて。でも、農家さんとしては草代、餌代減らす事ができるから、いわきとかもでまだやってんですけど、預けたりとかもするけど、なかなか、酪農家さんの数が減ったりとか。

紺野さん:そうなのか、預けて牛ダメにしちゃうんだったらば預けないほうがいいなって思うようになったのか。その管理者ですよね、牧野の管理者の腕ですよ。

インタビュアーA:なるほど。

紺野さん:こんな事言ったらば悪いですけど。

インタビュアーA:でも、いわきの場合はまだちゃんと続いてて、預けたら倍になって返ってくるって、すごい太って返ってくるんですって。

紺野さん:草の質がまだ良かったりとか。

インタビュアーA:草をちゃんと管理してるみたいで。

紺野さん:預かれば、合わして1日300円もらえるか400円もらえるだけのっていう頭だったらダメですよね。

インタビュアーA:牛を大事に、状態良くしようとしないとですね。ありがとうございます。共同牧野とかあったらよかったなって思って。

紺野さん:さっき言ったような石川の町なんて御荷鉾牧場ってのあるんですよ、牧野っていうのが。御荷鉾牧野とかって。あげる人いるかちょっと分かんないですけど。やっぱり、ありますよ、そういう要所要所で。

[01:05:05]

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:うちもあったんですよ。津島地区も。

インタビュアーA:ありましたか、津島に。

紺野さん:あったんですけども、さっき言ったように。

インタビュアーA:マダニ。

紺野さん:うん。みたいなのが発生しちゃってやめざるを得なかったっていう。

インタビュアーA:感染症対策みたいなところになるんですかね。

紺野さん:そういった良い薬あればよかったんだけども、なかったんですよね。

インタビュアーA:昔はなかったですもんね。感染症対策でこっちでやってるのはヨーネ病と牛白血病みたいなのの2つぐらいですか。あれって1週間くらいかかりますよね、検査結果出るまで。避難される時、5月20日に避難される時、放射能検査だけでいきましたか。

紺野さん:です。

インタビュアーA:特に感染症系の。

紺野さん:それは年次でやってるやつですよ。

インタビュアーA:年次ですよね。

紺野さん:年次で必ず酪農家は受けてますよね。

インタビュアーA:こっちでやってたから大丈夫って感じですね。

紺野さん:ヨーネか、白血病はちょっと分かんないけども、ヨーネは、あと、結核、ブルセラは3年に1回か2年に1回に必ず定期的にやってますよね。なので、それの後ろ盾はあったんじゃないのかな。

インタビュアーA:何。

紺野さん:後ろ盾。

インタビュアーA:後ろ盾。

紺野さん:その農家は必ず受けてますよっていう。

インタビュアーA:はいはい。だから、向こうも受け入れが。

紺野さん:うん。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:毎年じゃないよ。2年に1回か3年に1回ですよね。

インタビュアーA:そうですね。はい。

紺野さん:あと、新しい牛は新しい牛でまたやるとかってあったんじゃなかったかな。

インタビュアーA:だから、その検査証みたいのがあれば早いですよね、話がね。

紺野さん:それは持ってるはずですよ。持ってなくても領収書持ってるから大丈夫です。

インタビュアーA:そうですよね。ありがとうございます。すごく勉強になりました。

紺野さん:いえいえ。

インタビュアーA:これ編集して出したいと思うんですけど。

インタビュアーB:いわゆる、高齢化してるとまでは言えない状態ですよね。5歳ぐらいの方は元気にやってるっつうのは。

紺野さん:だと思ってました。

インタビュアーA:全然若いと思います。

紺野さん:あの当時、しょうがなくて世代交代して、じゃあ、当時30頭くらいしか飼ってなかったから、ちょっと、牛舎改築して50頭くらい飼おうかななんて思ってたところだったんですよ。こんな風に改築して、こんな風にしたいなと思ってたところ。

インタビュアーA:なるほど。次の構想があったんですね。

紺野さん:あったですね。牛はやりたくねって言う嫁も引っ張り込むためにも少し大きくしよっかななんて。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:うん。もう少し設備投資すれば親父おふくろの手も借りなくても済むんじゃないのかななんて思う算段をしてましたね。50歳になるっていう事が、歳としてはとっても待ち遠しかったんですよ。

インタビュアーA:待ち遠しかった。

紺野さん:そう。50歳になって、さあ、これからだって。たまたま、その当時やってた津島地区のふれあい体育祭やったんですけども。町民全部が混ざるっていう、プログラム最後は年代別リレーなんですよ男女それぞれのね。そして、最後の大トリが男子の年代別リレーなんですよ。10代、20代、30代、40代、50代。50代がなんでかんでアンカーでしょ。このアンカーがやりたいがために早く50代こねーかなって。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:そうなんですよ。

インタビュアーA:それでアンカーはやれましたか。

紺野さん:あの時だから、2000だよね、2010年で59年だから1回やったのかな。1回はやれたんだ。あと9年はやれるなと思った矢先でしたね。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:当時、その時の体育協会の会長やってたのでさほどの種目も出なかったんですよ。来賓席じゃなくて本部席で偉そうにこうやってずっと眺めてたんだけども。

インタビュアーA:そうなんですね。

紺野さん:会長の役割は、挨拶とその部落対抗のリレーに出る事が楽しみなの。毎年、アンカーだぞって思ってたんだけどね。夢が切られてしまって。

インタビュアーA:でも、1回は出たんですもんね。

紺野さん:1回出た。

インタビュアーA:いっぱい走れましたか。

紺野さん:たった半周だから。

インタビュアーA:あっという間。

紺野さん:あっという間だ。

インタビュアーA:そうですよね。

紺野さん:それまでは、40代までは1週なんですよ。1週は楽しいんだ。この野郎、だから。

インタビュアーA:半周なんですか、50代。

紺野さん:10メートルくらい差あったって追い抜けるぐらいだからね。この野郎って。もうカーブ曲がった瞬間にゴールだもん。あら、終わっちゃった。順位変わらずだよ。

インタビュアーA:そうなんですね。難しいですよね、半周で追い抜くって。

紺野さん:残念だとかってね。

インタビュアーA:若いですね、やっぱりね。気持ちも若いし。ありがとうございます。紺野さんぐらい色々全国の農家さんがね、困難に立ち向かうというか、できると。1日も休んでなくないですか、震災からね。

紺野さん:1週間休みました。

インタビュアーA:1週間だけでしょ。なかなかいないから、そういう方。

紺野さん:休みましたよ。

インタビュアーA:それは旅行とかでどっか行かれたんですか。

紺野さん:北海道で、さっき言った、酪農発表大会あったんだけども、当時は震災なので発表大会ってならなくて。でも、北海道が会場にやってたんですよ、全国の大会を。

インタビュアーA:そこに行ったんですか。

紺野さん:そこに行きました。

インタビュアーA:関係ないあれじゃなくて、牛なんですね。

紺野さん:折角行ったんだから、それまで行きたくて行けなかった実習先にも行ってきたんですよ。

インタビュアーA:実習先。

紺野さん:実習先。半年間程行ってたんだかなと思って、25~26の時に。そっからもう30年ぐらい行ってなかったのかな。電話だけだったからさ。

[00:05:02]

インタビュアーA:すごい。変わらずでしたか。

紺野さん:笑っちゃったのが、札幌だっけでレンタカー借りて行って、黙ってたのよ、何も言われんくて、奥さんが後ろからこんにちはなんて言ったらば、あら、こんにちはって言って、あ、紺野さんって簡単に言われちゃった。

インタビュアーA:一瞬で。30年前なのに。

紺野さん:そう。

インタビュアーA:いや、すごい。よっぽど印象に残ってたんですね。

紺野さん:そう。

インタビュアーA:だって、実習生って紺野さんだけじゃないですもんね。

紺野さん:ないない。

インタビュアーA:やだ、怖い。

紺野さん:入れ代わり立ち代わりで来てたんですよ、その実習先。

インタビュアーA:何かすごいあれだったんですね。

紺野さん:ゴマすってた。

インタビュアーA:いや、違う違う。印象に残る事やってたんですね。

紺野さん:印象に残ってたみたい。紺野さんってよく言ってたよねって、こだら事って。そんなにとんでもない事言ってたんだなって思っちゃってさ。

インタビュアーA:でも、覚えててもらえたのは嬉しいですよね。

紺野さん:あれは驚きだね。

インタビュアーA:30年前で一瞬で分かるんだ。顔も変わんなかった事ですね、若いまんまで。

紺野さん:どうだか分かんないけども。最初、そこのお母さんに会ってこんにちはってったらやっぱり覚えててくれてたし。

インタビュアーA:やっぱ、インパクトあると残りますよね、30年前でも。

紺野さん:インパクトあったんだよね。

インタビュアーA:うん。

紺野さん:とんでもねー実習先だったんだよ。

インタビュアーA:多分、当時から色んな事考えて色んな質問してたんじゃないですか。これはこういう時どうなるんですかとか。

紺野さん:そう。

インタビュアーA:紺野さんって極めようとするから。多分、そうなんだと思います。

紺野さん:笑っちゃうくらいにとんでもない事ばっかりやってたんだよ、あの頃は。

インタビュアーA:今もすごいまんまだと思いますけど。どうも、ありがとうございました。

紺野さん:いえいえ。あれ、ちなみに。

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