※「被災牛と歩んだ700日 東日本大震災における被災家畜対応記録集」より引用
①種:肥育
②頭数:数十頭
③電気:〇
④水道:〇
⑤エサ:ある程度
⑥当時のエサやり(通った)頻度:警戒区域として立ち入りが出来なくなるまで、数回福島市から小高に通って牛たちに餌を食べさせた。警戒区域内、20km圏内の家畜の殺処分が決まった後も1週間に1回のペースで餌やりに通った。
⑦震災当時の状況把握:籾殻運びのため、ライスセンターにいたところ被災。すぐに家に帰った。翌日は朝から牛の世話に勤しんでいた。原発の異常は知らなかった。3月13日、夫と原町に買い物に行ったが、店が閉まっていることに驚く。そこで原発への不安を感じる。3月14日、牛の餌やりや世話を終えて自宅でTVをつけると、3号機が爆発したところだった。(原発から22㎞付近)
⑧放牧:牛たちの避難所は無く、藁や乾草を多めに置いて牛、犬、猫を残し福島市に避難。
⑨牛の移動:不明
⑩金言:不明
2011.3.11- 籾殻運びのため、ライスセンターにいたところ被災。すぐに家に帰る。
2011.3.12 – 朝から牛の世話、原発の異常知らず。
2011.3.13 – 夫と原町に買い物、店が閉まっていることに驚く。原発への不安を感じる。
2011.3.14 – 牛の餌やりや世話を終えて自宅でTVをつけると、3号機が爆発したところだった。
2011.3.15 – 夫以外の家族が避難。藁や乾草を多めに置いて牛、犬、猫を残し福島市に避難。
その後、警戒区域として立ち入りが出来なくなるまで、数回福島市から小高に通って牛たちに餌を食べさせた。 警戒区域内、20km圏内の家畜の殺処分が決まり、奈落の底に落ちていく感じだったが、気を取り直し南相馬原町の借り上げ住宅に移り住み、1週間に1回のペースで餌やりに通った。事故死、病死、安楽死(放れ牛)が何十頭。
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