志賀隆成さん(浪江町室原地区・帰還困難区域)

※「被災牛と歩んだ700日 東日本大震災における被災家畜対応記録集」より引用

①種:酪農

②頭数:約50頭

③電気:✖(地震による大きな被害はなく電気もきていた。しかし夕方4時頃になり、電気消失。)酪農家仲間3人で仲間の友人から発電機を借りて、翌日から3人で使い回した。 

④水道:✖(ポンプで直水をくみ上げて牛は水を飲むことができた) 

⑤エサ:不明 

⑥当時のエサやり(通った)頻度:4.22の警戒区域設定まで7回ほど浪江の家に帰った。 

⑦震災当時の状況把握:〇(原発から15㎞付近) 

⑧放牧:牛は近隣の迷惑を考え繋いだままに。  

⑨牛の移動:不明  

⑩金言:不明

2011.3.11 – トラクター操作中だった(?)すぐに牛舎に戻る。地震による大きな被害はなく電気もきていたが、夕方4時頃になり、電気消失。発電機の手配をする。酪農家仲間3人で仲間の友人から発電機を借りて、翌日から3人で使い回す。

夜、牛たちは喉の渇きと乳房の張りの痛さで一晩中鳴いていた。

2011.3.12 – 発電機を借りて搾乳し、ポンプで直水をくみ上げて牛は水を飲むことができた。 午後原発爆発、避難指示発出。牛を置いて行くことについて近所の仲間に相談すべく訪れると3軒ともすでに避難していた。 夜、福島飯坂の叔父のところへ避難。牛は近隣の迷惑を考え繋いだままに。

2011.3.15~4.10 – 福島工業高校避難所に一人移る。4.22の警戒区域設定まで7回ほど浪江の家に帰るも牛は4頭。納屋は荒らされていた。 

2011.4.20 – 牛舎は死体だらけとなり、他の動物に捕食されていた。1頭だけ立ち上がり自身の方を見た。その牛を放したが、次に帰宅したときには10mほど離れた場所で死んでいた。

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