志賀和子さん(小高区川房地区)

被災農家の声(インタビュー)

※「被災牛と歩んだ700日 東日本大震災における被災家畜対応記録集」より引用

①種:和牛 

②頭数:30頭 

③電気:〇 

④水道:〇 

⑤エサ:不明 

⑥当時のエサやり(通った)頻度:2011年4月10日に南会津のホテルに生活拠点を移したことで、自宅まで片道5時間近くかかるように。だが、4日に一度、2011年10月まで通い続けた。 

⑦震災当時の状況把握:震災の翌々日、夫との連絡が取れなくなった。(原発から20㎞付近) 

⑧放牧:不明  

⑨牛の移動:不明  

⑩金言:不明

(画像:志賀和子さんに寄り添う牛)

2011.3.12 – 夕方早めの時間に牛に餌を与えていたとき、原発爆発。原町区の親戚宅に身を寄せる。

2011.3.13 – 朝早く、自宅に戻り牛に餌を与え、会津の知人宅に避難。夫との連絡とれず。

2011.3.15 – 会津若松総合体育館に移る。残してきた牛を心配して体調崩す。

2011.3.22 – 自宅に戻ると、牛舎で仔牛が産まれていた。その後4日に1度は牛の世話のため自宅に戻る。

2011.4.10 – 南会津のホテルに移る。自宅まで片道5時間近くかかるように。

2011.4.22 – 自宅が警戒区域となり、立ち入り禁止に。その後衛生対策公益立ち入り許可がおり、わずかな時間だが餌を与えに入れるように。しかし夏の頃には牛の衰弱が顕著になり、1頭また1頭と息絶えていった。生き残った牛は9頭。

2011年10月末 – 生き残った9頭を半杭一成さんの牧場(後の懸けの森みどりふぁーむ)に移す。

2013年夏、可愛がっていた牛みどりが死ぬ。

2015年、2頭のみ生存。餌を与えに行って会える事が何よりの喜びであり、生き甲斐となっている。

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