半杭一成さん(小高区大富地区)

※「被災牛と歩んだ700日 東日本大震災における被災家畜対応記録集」より引用

①種:酪農 

②頭数:不明 

③電気:〇 

④水道:〇 

⑤エサ:不明 

⑥当時のエサやり(通った)頻度:最初留まって世話。その後避難。

⑦震災当時の状況把握:〇(原発から22㎞付近) 

⑧放牧:震災前していた。  

⑨牛の移動:できず  

⑩金言:不明

2011.3.14 – 娘夫婦宅に避難

2011.3.15 – 朝帰宅し貴重品持ち出し、犬を連れて福島市の長男夫婦宅へ避難。

2011年4月中旬 – 姪の結婚式式服を取りに帰宅。

2011年5月 – 双相家畜保健所を訪ねる。担当者、農家仲間とで震災後はじめて牛舎に入る。(愕然として涙も出なかった)その後市の農林水産課の依頼で小高区の畜舎消毒、放れ牛豚の捕獲、安楽死処分、死亡家畜埋却の仕事に携わる。(命の尊さをあらためて考えさせられる)

(画像:半杭一成さんはこの木の写真を首にかけて毎日暮らしておられるそうです)

東日本大震災による東京電力福島第1原子力発電所の事故から半年が経過しようとしていた2011年夏。福島県南相馬市の元酪農家、半杭(はんぐい)一成さん(70)は、泣く泣くミイラ化した牛の埋却作業を行っていた。

 半杭さんは自宅で40頭の乳牛を飼っていたが、原発から20km圏の避難指示エリアに入ったため、牛を置いて逃げざるを得なかった。最初は住民の消えたまちでとどまっていたが、原発の爆発・火災事故が相次ぎ、とても残っていられる状態ではなくなったのだ。

餓死した牛たちの痕跡

 牛は牛舎でつながれたまま飢えて、死んだ。政府はそうして死んだ大量の牛を、牧草地などに埋却する方針を打ち出し、半杭さんも防護服を着て作業に当たった。ずらりミイラ化した牛を運び出すと、閑散とした牛舎で柱だけが目立つ。その時、柱の「変形」に気づいた半杭さんは、愕然とした。

 牛は食べるものがなくなり、木の柱までかじったのだと、すぐに分かった。最後まで生きようと、必死であがいた痕跡が刻まれていたのだ。「牛さんに悪いことをした。本当に申し訳ないことをしてしまった……」

 止めどなく涙があふれ、立ち尽くすしかなかった。

 飼っていた牛を「牛さん」と呼ぶほど可愛がっていたからこそ、悔恨が募る。半杭さんは柱を撮影し、プリントした写真をバッグに入れて、肌身離さず持ち歩くようになった。

 あれから9年の歳月が経ち、写真は半ば破れてボロボロになった。それでも写真を見るたびに目頭が熱くなる――。」

 半杭さんは東日本大震災による東京電力福島第1原子力発電所の事故で、牛を牛舎につないだまま避難せざるを得なかった。残された牛は飢え、首の届く範囲の柱をかじりながら、死んでいった。牛の前歯は下にしかない。にもかかわらず、堅い木を命懸けで噛んだら、こうなるのか。

2400件を超える「震災遺産」

 その痕跡がまざまざと残された柱のレプリカが、福島県会津若松市の同県立博物館で4月12日まで開かれている特集展「震災遺産を考える−それぞれの9年−」で展示されている。

「一見しただけでは、何の柱かよく分かりません。でも、事情を聞いていくうちに、壮絶なストーリーが浮かび上がってきます。それが原発事故による『震災遺産』の特徴です」。担当した同博物館の筑波匡介(ただすけ)学芸員(46)が説明する。

原発事故で取り残され……「牛は悲鳴をあげて餓死した」南相馬市の元酪農家が語る“9年間の悔恨” | 文春オンライン
1枚の写真がある。 荒々しく削られて細り、ささくれた「柱」を撮影したものだ。牛舎で牛をつないでいた柱である。 なぜ、そのようになったのか。(全2回の1回目/後編に続く) 東日本大震災による東京電力福…

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