※「被災牛と歩んだ700日 東日本大震災における被災家畜対応記録集」より引用
①種:養豚
②頭数:母豚140頭
③電気:〇
④水道:△→3/11は水回りの修理に追われ夜11時過ぎ帰宅。翌日、翌々日も水回りの修理に追われる。水が出ないところも多くあり、バケツで水を運ぶ。3/22は親戚宅の井戸からタンクに水を汲みに数回往復し豚に与える。
⑤エサ:3/14、飼料配達の車が小高には入れない状況となるも、保管していた限られた飼料を与える。
⑥当時のエサやり(通った)頻度:4/22まで数回、5月以降も数回通った。飼料用タンクが傾き、自動搬送ができず、手作業で飼料を与えていた。
⑦震災当時の状況把握:3/12午後、原発爆発の知らせを家族から聞くも、豚の世話を夜まで続けた。3/15、原発の爆発音を聞いた。家族から早く避難するよう電話が入った。(原発から18㎞付近)
⑧放牧:2011年4月中旬、相当数の豚が敷地内を散歩していた(豚舎は人家から離れたところにあった)。水を求めて川の近くまで行っている豚もいた。
⑨豚の移動:2011年4月中旬、家族で小高に戻り、豚を集めて豚舎に戻した。
⑩金言:不明
2011.3.11 – ハウス豚舎の脇が崩落。中にいた豚の移動、水回りの修理に追われ夜11時過ぎ帰宅。
2011.3.12 – 豚の管理と水回りの修理に追われる。飼料用タンクが傾き、自動搬送ができず、手作業で飼料を与える。水が出ないところも多くあり、バケツで水を運ぶ。午後、原発爆発の知らせを家族から聞くも、豚の世話を夜まで続ける。夜時頃帰宅。
2011.3.13 – 前日と同じような仕事に追われる。
2011.3.14 – 家族を郡山の親戚宅へ避難させ、父と残り豚の世話を続けるも飼料配達の車が小高には入れない状況となる。
2011.3.15 – 原発の爆発音聞く。家族から早く避難するよう電話が入る。
2011.3.16 – 避難を決める。出来るだけの飼料を豚に与える。(涙が出る)父を説得し、郡山へ向かう。
2011.3.22 – ガソリンが手に入り、帰宅。ほとんどの豚が生きていたので保管していた飼料を与える。親戚宅の井戸からタンクに水を汲みに数回往復し豚に与える。
その後何度か給餌のため、小高に通う。
2011年4月中旬 – 相当数の豚が敷地内を散歩していた。(豚舎は人家から離れたところにあった)水を求めて川の近くまで行っている豚もいた。家族で小高に戻り、豚を集めて豚舎に戻した。
2011.4.21 – 最後の飼料を与えに帰宅。戻る度に生き延びていた豚たちはやせて、子豚たちは母豚の傍らで寄り添うようにかたまって亡くなっていた。
2011.5.11- 警戒区域設定後はじめて養豚仲間と小高に戻る。大富地区の牧草地で牛と豚が一緒にいたり、道路を豚の集団が歩いているのを見た。(周辺で100頭以上生存)自宅豚舎敷地内を散歩している豚数頭、豚舎内でも生きている豚がいたので飼料を与える。9割以上の豚が死亡していたが、生きていた豚はやせ細りながらも共食いをして生き延びているようだった。その後何度か小高に入り飼料を与えた。
2011.6.1 – 郡山で放射線測定の仕事に就く。借り上げアパートに移る。
2011年7月 – 南相馬市役所担当者より連絡「豚が出没し始めたので何とかしてほしい」豚の捕獲のため時々帰宅。
2011年8月 – 殺処分に同意。
2011年10月 – 小高の殺処分ほぼ完了。
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