①種:乳牛
②頭数:35頭
③電気:無かった。小型の発電機しかなかった。ソーラー発電機は無い。
④水道:山からの澤水が震災前から引いてあった。ウォーターカップは壊れなかった。
⑤エサ:1年分のストックあり。
⑥当時のエサやり(通った)頻度:不明
⑦震災当時の状況把握:震災当時は診療所(事務職役場の)に居た。(原発から34㎞付近)
⑧放牧:10町歩(全部牛用の草地)。1町歩の田んぼ(減反)にも牧草を巻いていた。放牧経験なし。
⑨牛の移動:カタカナのおしゃれな名前を付けていた。呼ぶと着いてくる。
⑩金言:「餌だけは、1年以上分を確保しておくということ。」
「常に塩がないと生きていけない。余っても他に回せばいいだけであって、後は余分に確保しておかなきゃいけない。」
「人間も個人も、かんづめとか、備えておくことが大事。」
「自給自足してたらそれだけでも、畑が冷蔵庫っていうか。」
「孫世代は私の後姿を見ている。」
「自分が食べるものは自分で研究して勉強して、農家さんを仲間に持ちなさい。」
インタビュアーA:よろしくお願いします。取り敢えず、お名前を教えてください。
石井さん:はい。浪江町出身の石井キヌエです。うちは酪農でした。
インタビュアーA:お名前の漢字とかも教えていただいていいですか。
石井さん:石井は、ストーンの石、井戸の井、絹江です、いとへんの絹、江戸の江、絹江です。
インタビュアーB:分かりました。ありがとうございます。ご連絡先が。
石井さん:連絡先。
インタビュアーA:浪江町の住所。
石井さん:浪江町の住所。
インタビュアーA:はい。
インタビュアーB:はい。
石井さん:浪江町は、双葉郡浪江町大字赤宇木、赤宇木って書きます、赤いに宇か。
インタビュアーA:それって宇野さんの宇。
石井さん:宇野さんの宇とか、宇和島の宇とか。
インタビュアーA:はい。
石井さん:赤宇木、アコウギって言うんですけど。赤宇木字塩浸、塩浸す、塩は普通の塩、浸すはさんずいの浸す。塩浸。
インタビュアーA:はい。
石井さん:14の1です。
インタビュアーB:ありがとうございます。ご住所は変わらず、震災前も震災後も変わらずそこに住まれてるんですか。
石井さん:震災後は福島です。
インタビュアーB:福島。
石井さん:今は浪江町の赤宇木地区は帰還困難区域になっててで、今、私は福島市飯坂町。
インタビュアーA:そっから先大丈夫です。そこまででいいです。
石井さん:はいはい。
インタビュアーA:避難されてます。
石井さん:はい。
インタビュアーB:はい。分かりました。ありがとうございます。ご年齢を教えていただけますか。
インタビュアーA:差し支えなければで。女性で。
石井さん:年齢は69歳です。
インタビュアーB:ありがとうございます。
インタビュアーA:はい。
インタビュアーB:避難先自治体、避難経路など教えていただけますか。
石井さん:避難経路は、浪江町から郡山、郡山から二本松、二本松から福島市で、現在の福島市ってまた変わったんですね。
インタビュアーB:はい。分かりました。ありがとうございます。
インタビュアーA:全部で5箇所。
石井さん:5箇所。
インタビュアーA:大変ですよね。5箇所も転居。
石井さん:5箇所も転々と。だから、余計の荷物は持てなかったんですけど、やっぱり、これもあれもってなっちゃうと本当にものが捨てらんなくなっちゃう。
インタビュアーA:そうですよね。
石井さん:うん。
インタビュアーA:その避難されたのが、後で震災当時から詳しくはお聞きするんですけど、どこに何年とかってそういうのは分かりますか。
石井さん:大体分かります。
インタビュアーA:分かりました。ちょっと、後でそれをお願いします。
石井さん:はい。
インタビュアーA:コニシさん、続けてください。
インタビュアーB:はい。敷地の広さを次にお聞きしたいんですが。
石井さん:何の広さ。
インタビュアーB:敷地。ヘクタールとか。
石井さん:今の。前の。
インタビュアーA:前のですね。
インタビュアーB:前の。田んぼだったり。
石井さん:住宅。農地。
インタビュアーB:農地です。
石井さん:農地は。
インタビュアーA:農地っていうか牛舎も含めて。
石井さん:含めただよね。大体10町歩。
インタビュアーA:そんなに。
石井さん:うち、だって、酪農だし、山を開墾して草地にしてたの。
インタビュアーA:自給自足ですか。もしかして。
石井さん:うんうん。
インタビュアーA:すごい。酪農で自給自足ってすごくないですか。
石井さん:買うやつもあったけど、草は自分家で収穫してそれを友達にあげたり売ったりとかして。
インタビュアーA:そこまで。
石井さん:そこまでやってた。
インタビュアーA:10町歩ですもんね。
石井さん:うん。だから、大型のトラクター2台あって、1台1000万のトラクター。
インタビュアーA:ジョンディアとかそういう系ですか。
[00:05:00]
石井さん:外国ので。なんだっけ。
インタビュアーA:赤いやつですか。
石井さん:いやいや。違うくて。
インタビュアーA:マッセイ・ファーガソン。
石井さん:マッセイ・ファーガソン。
インタビュアーA:本当に。超高級車じゃないですか。
石井さん:そんなんで、トラクターはその2台とか、それも結でね、みんなで共同で、うちは、じゃあ、機械何持つ、金持ち寄って、ロールする機械とか、そういうのをみんなそれぞれに仲間が持っててみんなで共同ってやってた。
インタビュアーA:すごい。
石井さん:すごいんです。マッセイ・ファーガソン。
インタビュアーA:組合みたいな感じで。五人組みたいな。
石井さん:そう。4人だか5人だかでやってて。
インタビュアーA:すごい。
石井さん:それで、種蒔きも山県から耕して牧草の種蒔いて、それも2回、3回ってね、繰り返しして種蒔きをしてて。みんなね、それぞれに大型でないと入れないってかね、量がすごかったから。みんなそのくらい山持ってたし、山を草地にしてたから。
インタビュアーA:すごい。
石井さん:すごいです。
インタビュアーA:酪農でって相当大変ですよね。
石井さん:そう。
インタビュアーA:食べる量が和牛よりも多いですもんね。
石井さん:そう。多い。が一斗缶、食べるやつを発酵させてそういったロールでね、うちは白いロールだったんですけど、ロールに巻いといてそれで食べさせた。だから、そういうのも全部機械で。
インタビュアーA:大型特殊の。
石井さん:みんな、だから、大型特殊の免許持ってて。
インタビュアーA:震災前から持ってたんですか。
石井さん:もちろん。
インタビュアーA:大体それは持ってないから震災後とかに国から取れって言われて取ったとかっていう人の話は聞いた事ありますけど。
石井さん:以前は、そういう風に、全部大型でやってたんです。
インタビュアーA:すごいですね。
石井さん:いや、すごくはないです。それが当たり前で、専業で、うちの主人はね、やってたからそれが生きがいであったし、朝から夜まで、だから、夜もっていうか堆肥ね、毎日の堆肥、夜だから11時頃までかかって堆肥をこうさせて。
インタビュアーA:切り返す感じの。
石井さん:切り返しをやってて。それを発酵槽に持ってって発酵して、ヨーグルトみたいな、なんつうんだっけ。
インタビュアーA:乳酸菌の。
石井さん:乳酸菌を発酵させたものをまた畑に撒いて、あと、野菜畑にもちょこっとはもらったりとかしててね。そういう肥料のつくりも全部うちで、本当に自給自足だよね。
インタビュアーA:普通は持ってってくれてフンとかはどっかやってますけど、つくってたんですね。
石井さん:そう。それを自分家で全部処理して。
インタビュアーA:すごい大変ですね、それね。
石井さん:うん。大変でした。それは割にしんどい仕事で。
インタビュアーA:そうですよね。牛の搾乳の時間は決まってるけど、堆肥とかは夜後回しになりますもんね。
石井さん:みんな堆肥をね、全部牛舎から運んだものを切り返しをするために補助金をいただいて、それもね、震災前ずっと返済してたんだけど、それもちょっとだけ残って、それを後で全部お金は払ったけど。そしたら、もう誰もいないっていうのか、風で壊れちゃったけどね、その堆肥槽も。
インタビュアーA:そうなんですか。
石井さん:うん。
インタビュアーA:震災の後、大雪とすごい暴風がきましたよね。
石井さん:そう。
インタビュアーA:その時ですかね。
石井さん:その時に扉が壊されたりとかして。やっぱり、うち、掘っ立て小屋みたいなね、ロール、餌を毎日ね、キロ数は分かんないけどすごい食べさせてたから、草をね、そういう小屋なんかも吹き飛ばされちゃったりとかして。本当はいればね、いればすぐに修理したりとかできたんでしょうけども、今ではもう跡形もなく潰れ去ってますね。
インタビュアーA:そうなんですね。当時の写真とかって残ってたりするんですか。
石井さん:写真。
インタビュアーA:浪江にある感じですね、多分。
石井さん:そう。
[00:10:00]
インタビュアーA:分かりました。なんとなく規模が、想像つかないぐらい大きいんだろうなっていうのは分かりました。だって、乳牛のストック場所なんて普通のあれじゃないですもんね。
石井さん:そう。牛舎って丸い屋根じゃないですか。
インタビュアーA:丸かったんですね。
石井さん:うん。2階は、全部藁を入れてあるのが2階の倉庫。
インタビュアーA:それ良い構造なんですよね。本当はそうしたほうがね。
石井さん:そう。雪もストンと落ちる。
インタビュアーA:藁も温かいところに。
石井さん:2階の、牛が寝てから。
インタビュアーA:乾燥してるですもんね。
石井さん:そうそう。2階に全部上げるんで。1年間食べるぐらいの藁も全部確保しといて。
インタビュアーA:1年間分。
石井さん:1年間分を。秋には、もう、秋上げ、稲わらが出た時に1把3円だか5円だか買って、全部それを、うちは田んぼつくってない減反だから全部買って、それを2階に上げて、それを1年間食べさせるぐらいのね。藁と草は全部。
インタビュアーA:相当な量ですよね。
石井さん:相当な量。
インタビュアーA:想像つかないですけど、相当だと思います。藁、上あげるのはどうやってあげたんですか。フォークリフトみたいな。
石井さん:手でね、トラックの上からポーンと上げれば。
インタビュアーA:投げる感じで。
石井さん:投げる感じで。ストンストンと上げる感じで、それでストックしておいて。子供達もみんな総出でね、そういうのやる時は土日休みの時に。
インタビュアーA:リレーみたいにしてやる。
石井さん:そう。リレー。中に持ってけば運ばなきゃなんないし、上げたら整理しなきゃなんないとかって、そういうのはみんな子供達に、男3人なんですね、うち。
インタビュアーA:そうなんですね。
石井さん:うん。それでみんな使って、手伝いしてくれたんで、みんなでやってたね。それこそ、遊びみたいな感じで楽しくやった。
インタビュアーA:聞いてると楽しそう。
石井さん:そう。
インタビュアーA:大変だけど、大変っていうよりこれが1つの当たり前の作業って。
石井さん:遊びみたいなね、感覚でみんな子供達ね、嫌がらず、なんでかんでも土曜日か日曜日どっちかにはお手伝いするっていう形で。
インタビュアーA:素晴らしいですね。
石井さん:だから、みんなで力を合わせてね、やっててね。
インタビュアーA:家族だけでやってる、プラス、地域のそういう組合とも一緒にやってたりとかして。
石井さん:そう。人手が足りない時はみんなで動員して、じゃあ、手伝いに行くぞみたいな感じで電話で全部。大変な時はみんなで、うち大変だから手伝ってもらえっかなみたいな感じだと、もうね。あと、搾乳する前の時間っていうのは休憩タイムなのよ。牛舎にお湯を温めといて、そこで休憩。誰かが来ると誰かがコーヒー買ってきたりとか、あと自分家でもストックしてあって、コーヒーを温めといて、休憩のそのコーヒーを一服してから搾乳するっていう。そういう仲間意識がね、誰かが来たらもう休憩っていう感じで。お互いに忙しい時期は忙しいから分かっててね、そんな感じで楽しくやってたね。
インタビュアーA:素敵な関係性ですね。
石井さん:そう。
インタビュアーA:結っていう感じなんですね。
石井さん:結ですね。
インタビュアーA:助け合いの結で。
石井さん:そう。お金をかけるのではなくって、体で奉仕してお互いに体で返すっていうそういう風な感じの酪農家の津島地区のね、そういう集落だったんですね。
インタビュアーA:素晴らしいですよね。
石井さん:いやいや。
インタビュアーA:良いところを凝縮しましたみたいな。
石井さん:お店がね、結局、赤宇木地区ってDASH村の近くだから何もないところなんですよ。
インタビュアーA:そうなんですか。
石井さん:何もないところで、だから、何もないからこそお互いに協力し合える。今、私、福島にいるけど、福島はなんでも揃ってて身近になんでも食べれて、そういうのはそういうのでいいんでしょうけど、やっぱり、山間の本当の集落、中山間地域の高冷地、高地って言ってたんですけど、その高地で暮らすのには、やはりね、お互いにそうやって助け合いみたいなね。
[00:15:03]
石井さん:温かいだったね、やっぱりね、人間的に。みんな人の事を批評したり批判したりする事はなく、ここまでいったんだったら、じゃあ、俺んとこはこうしたいよなみたいな、お互いにね、大変な事は大変だっていってお互いに助け合うっていうのがね。うちのお父さんは親方っていうか親分肌だったんで、うちにみなさん若い人達が集まってきてたし、じゃあ、いつ頃からカレンダー見て天気予報見て、いつ頃から草の刈りやったりとか、天地返ししたりとか、色々種蒔きも必要だとかね、そういうのを判断できてたのがうちの人で。
インタビュアーA:リーダーみたいな感じなんですね。
石井さん:そう。リーダーみたいな。そうやって、みんなで落ちこぼれないように、1人に孤立しないように、山の中だからね、特にね。そんなんでやってましたね。
インタビュアーA:旦那さんも素晴らしいですね。
石井さん:あんな事があってから、仮設住宅、その後ね、ずっとしばらくした後、仮設住宅に入ってからもう体、今、具合悪くして、今日も診療所行ってるんですけど。薬漬けになっちゃって、今ではね。だから、そういった事で、震災がなければ活き活きと伸び伸びとね、今72歳なんですけど、75まで牛のね、そういった仕事をやりたいっていう事で。
インタビュアーA:体も丈夫だったんですか。
石井さん:丈夫だった。
インタビュアーA:薬も飲んでなかった。
石井さん:飲んでなくって、朝ごはんなんててんこ盛りごはん2膳は食べてたからね。今はもうごはん食べれなくってるけど、前はそういう風にしてごはん食べて毎朝いたんだけど、今ではもう、震災があって仮設に避難してからはなんかこう張り合いがなくって。だったら、お父さん、私と一緒に牛農園っていうの、農地をね、耕して自分達が食べるもの、食べたいものを作付しようって事で、石井農園で、今、えごまを作付して栽培してで加工品をつくってっていう形に今ではなったけど、やっぱり、うちのお父さんはあまりここには来ないんだけど、ここ加工場だけなんですね、ここね、来ないけど、それなりにお父さんはお父さんなりに、今日は診療所だけど、あとたまにパチンコ行ったりとか、パチンコに行っても周りと話する訳でもなく、仲間もそんないる訳じゃなく。これから温かくなればね、畑、トラクターでうなったりとか、草刈りしてもらったりとかね。朝、温かくなれば4時頃から畑に出て私にお手伝いしてくれて。日中の暑い時は休むっていう感じで、今。
インタビュアーA:体を動かさないよりはそういう風に農作業やってたほうがよい感じなんですか。
石井さん:うん。あとパークゴルフ行ったりとかね、そんなのしてる程度で、別に何もする訳でもなく、今までに10時、11時頃まで毎日365日そうやって働いてた人が。
インタビュアーA:そうですよね。急に生業を奪われた形ですもんね。
石井さん:そうなんですよ。
インタビュアーA:それは大きな喪失感っていうか。
石井さん:そうだね。
インタビュアーA:震災前と全く同じにね、体がなってるのはいないですよね、あんまり、震災前と体調が一緒ですっていう農家さんが。
石井さん:あの時の事が思い出されちゃうんだよね。実際、私も、タニさんも見たと思うんですけど、紙芝居が最初見れなくて、うちの人はね、見れなくって、そんなすっことないみたいに言われたんだけど、私は自分達がね、10年後、20年後亡くなってから酪農家、うちのお父さんの気持ちをあの芝居で残そうっていう事でね、それはもう私の、毎日説得したっていうかね、そんなんで。
[00:20:02]
石井さん:酪農家のね、殺処分されたっていうのは、本当にね、今思えば悲しいあれなんだけど、やっぱり、それだって事実あった事だし、震災がなければね、牛だって殺処分される事なかったのにで自分だってそういう仕事奪われなくてね、俺は75までやったらあとは車に乗ってドライブしたりとかそういう風にするのが楽しみだからって、山登りも好きだったしでそういう事をやりたかったのよね、本人はね。でも、やっぱり、牛が殺処分されたって事が本当に、自分もあれで人間終わったのかなみたいな感じでね、いるんで。だから、まだまだこれから行きていくのには、やっぱり、食と農だなって。お父さんに食べるものを気をつけてよ、玄米食を食べてよ、豆のごはんを食べてよとかね、そういう風な食べ物からね、今、ちょっとずつちょっとずつやってるんだけど、なかなかね、体が寄せ付けないっていうかで、やっぱり、思い出しちゃうんだろうね。牛とあれだけ40何年自分が一緒にいた訳だから、牛で食べさせてね、家族を養ってきてくれた牛に対してあれだけ可哀想なね、最後、別れ、あの期間がね、ちょっと酷だったんだなって思うんです。でもね、みなさん、うちばっかりじゃなくて、牛だけじゃなくっても、動物がね、みんなも家族同様に、犬でも、猫でも、何でもね、鳥でも、豚でも、本当に、イノシシなんかもね、飼ってた人達もいたんだけど、動物を野生にしちゃうっていうのが可哀想で、ましてや殺処分なんてどんでもないあれだったなって思ってはいるんだけど、これは実際起きた事はしょうがないから、お父さん、前向いていくしかないからもうあれだよねっていう話をしてね。
インタビュアーA:紙芝居は、アベさんとコニシさんも事前に見させていただいて。
石井さん:見てくれたの。
インタビュアーA:2人見たんですよね、紙芝居。ちょっと、それ、感想とか何かあったら、是非、今伝えていただきたいなって思うんですけど。
インタビュアーB:殺処分された牛の目線で描かれていて、乳牛とその酪農家さんとかの、自分は、今、1週間、2週間くらいこのインターンをしてるので知ってるつもりにはなっていたんですけど、改めて現状というか実状というか、現実を知る事ができました。家族同然の牛とか、家族同然であるような牛を殺処分しなきゃいけないっていうその場に居合わせた人達はどういう、自分も親戚に牛飼いの人がいるので、あの牛達を全部処分するとか考えられないから胸が傷んですり減りましたね、色々。つらかったです。
インタビュアーC:質問としていいですか。
インタビュアーA:はい。
インタビュアーC:殺処分される前に県のほうとかに抗議はしたりしたんですか。
石井さん:抗議はできない。
インタビュアーC:止めたりそういうのは。一方的にきたって感じなんですか。
石井さん:そう。命令調だよね。福島県酪農業協同組合いうね、大きな組織があるんですよ。私達のまとめてるところが、そこから、もう、こうしなさいああしなさいっていう上からのお達しがあって。
[00:25:04]
インタビュアーC:はい。
石井さん:結局ね、牛を殺処分する前に自分達が避難しなきゃなんないっていうのがあったよね。
インタビュアーC:はい。
石井さん:うちのお父さんは、たまたま残って牛を面倒を見てた。みなさんは、若い人達は家族を守んなきゃなんないからって言って牛を置き去りにして行ってた。うちのお父さんは、それはダメだ、避難先から戻ってこい、餌をあげろ、水をあげろ、塩をなめさせろっていう風にうちのお父さんが避難先の仲間にみんなに電話を入れてそれで戻ってきてもらって、現在生きてる訳だから生きてる牛を見殺しにする訳にいかない、水を飲ませないと死んじゃうからそれはなんでかんでそれはやらないといけないからっていう事で、うちのお父さんが1人残ってみんなに連絡をして、それで来て。やっぱりね、上の県の酪農の連絡は酷だったとは思う。でも、自分達の身が危ない中で牛を殺処分っていうのは、8000ベクレルがあればね、もう殺処分だよってなったけど、それもなければいいんでしょって、放射能が含まれてない牛は二本松とか本宮とかにうちはもう持っていってもらって殺処分っていうのは免れたんだけど。やっぱり、風っていうのかな、それに触れた牛はもう8000ベクレルあったからね、そういうのを全部保健所、何保健所だっけ。
インタビュアーA:相双。
石井さん:相双保健所のほうで、全部家畜保健所のほうで測って、それを、放射能含まれてる牛、含まれてない牛とかってね、振り分けをしてそれで殺処分されたのとされないのとね、振り分けをして。私もね、その時は実際そこの場にいた訳じゃなくって、私はただうちの主人から聞いただけで、私は町民を守らなければならない立場に職場がね、町民を、2万1000人を守るっていう仕事のほうで、みんな、家族バラバラなったっていうのがね、うち、石井家の、8人一緒だった家族が今でも一緒になれないんですよ。うちのお父さんは1人でその牛を守った、私は町民を守らなきゃなんない。
インタビュアーA:石井さんは役場の職員だったんですね。役場の職員です、浪江町役場の。
インタビュアーC:そうなんですか。
石井さん:ええ。
インタビュアーA:だから、町民を避難してくださいって言わなきゃいけない側の立場だったんですよね。
インタビュアーC:はい。
石井さん:そうなんです。それで42年間も役場のほうにいて、もう1年で退職だよっていう時だったから。
インタビュアーC:はい。
石井さん:それで4箇所にね、うちの息子、長男夫婦と、あとじいちゃんばあちゃんと、4箇所にね、うち分かれちゃったっていうのがあって、そん時、3月15日の震災でね、避難する時、3月15日だったんですね。
インタビュアーC:はい。
石井さん:それも、うちのお父さんが、俺は乳牛を守るからおめーらはみんな各自自分の命は自分で守るんだって、じいちゃんばあちゃん側もごねてたのね、もう避難しないしないって言って、いいや、俺はこのままでいいやってばあさんもじいさんもそれを言い張ってて、でも、うちのお父さんはなんでかんでこんな事態、緊急の事態なんだから避難しなきゃなんないっていう事で。牛は俺が守んだからあんたら自分の命は自分で守れって事で、私も、そん時ね、じいちゃんばあちゃんを連れて避難、あと、息子達夫婦も子供2人いたんで、一旦郡山には避難したけど、その後、新潟県の柏崎、原発のあるところなんですけど、そこに避難しちゃったんですね。それも、この息子達は仲間仲間の連絡の取り合いで、あっちに、新潟県のほうに避難した。そこでお産があったから、自分達のね、3番目の孫が産まれるって事で避難してた。とにかく、そん時は自分の事精一杯で、私はこの、牛は、じゃあ、お父さん任せるから、もう、私、じいちゃんばあちゃんを毛布1つでね、本当に、車に、毛布1つでもう避難しなきゃなんなかった。
[00:30:06]
石井さん:何も持てなかった、手に持ってなかったのね。その頃から放射能ってのは分かってて、放射能があるから全部毛布も持たないでみたいに息子に言われたりとかして、放射能って怖いんだよみたいなね、目に見えないけど怖いんだよって言われて、うちの息子に、お母さん、絶対そんな浪江のほうの色んなものは持ち出さないでねみたいに言われて、本当にね、体1つで車に乗って、じいちゃんばあちゃんも、でも、可哀想なんで毛布1枚被せて、ばあさんに被せてそれで一回郡山に避難して親戚の家に。それから私は二本松に来て。じいちゃんばあちゃんも高齢で、心臓病だったりとか色々病気持ってたから郡山からすぐ私のそばに、二本松に避難させて。それで、私は診療所っていうとこに勤めてたんですよ、そん時ね。たまたま診療所に勤めてたから年寄りを面倒見たりとかする仕事だった。そしたら、うちのお父さんがこの牛を守るからって言って自宅にいた、でも、うちのお父さんってごはん炊く事もできない、洗濯する事もできないお父さんで、本当に酪農一本一筋っていう感じの人で、それで何もできないから、私、仕事を夜終わると食料持ってお父さんのところに届けたりとかしてね。
インタビュアーA:夜中ですよね。そしたらね。
石井さん:そうです。夜中。
インタビュアーC:浪江町に。
石井さん:浪江に、あん時も2時間半ぐらいかかって。
インタビュアーA:山道で。
石井さん:そう。山道を行って。
インタビュアーC:その時って浪江町に入る事ができたんですか。立ち入る事が。
石井さん:その時はね、今の帰還困難区域が逆回転しててそん時は入れたんですよ。
インタビュアーC:はい。
石井さん:今、解除されたとこが入れないっていうね、放射能があるから、近いから放射能があるからって言われてて。でも、実際は逆だったんですよ。今の期間困難区域に入ってもいい、放射能があるから浪江の町には入るなみたいな感じだったんで、本当に実際放射能って目に見えるものではなかったんで、あの頃は恐怖心だけで、通る人達、国道沿いなんでうちは、国道通る人達は防護マスク、ガスマスクみたいなのして通ってる訳よ、みなさんね、県のほうの偉いさん達は、私らは何もしない、あん時、マスクなんかもそんなになくってタオル頭に被ったぐらいでやってたんで、それがね、放射能が高かったっていう後の祭りになってしまいましたけど、それでこの牛をうちのお父さんは守る、でも、食料が何もない、本当に私もね、仕事で町民を守んなきゃなんない、診療所も立ち上げなきゃなんないっていう時に、でも、やっぱり、お父さんのね、俺は自分は自分だから大丈夫だからって言われたけど、食料を、このいただいた食料で、その時のね、食料って期限切れの山崎パンだったりとか、あと、おにぎりも冷たくなった期限切れのおにぎりはもう捨てるしかなかったんですね、町としても、そういうのを持ってって、あとラーメンなんかも結構支給されたんでそういうのを持ってってお父さんに渡すと、お父さんが避難した若い人達を呼び寄せてうちで、もう、みんな、それから食料を、人間の食料も今度配った。牛の食料はもう十分に牛は間に合うぐらいはあったんで、そんなんでうちのお父さんが体をね、悪くしてしまったっていうのもあってね。
インタビュアーA:そうですよね。そういうのばっか食べてたら。
石井さん:そう。だから、本当にごはんだって炊く事できない、お米あってもごはん炊く事できないうちの人だったから、強がりは言ってたけど何もできなかったっていうのは、多分ね、つらかったんだろうなって。
[00:35:00]
石井さん:だから、子供達を甘やかしては絶対にね、ごはん炊く事も、卵焼きでも何でもできるようにね。今ではできるようになったけど、本当にあの時の教訓がね、今でもね、思い出しますね。
インタビュアーC:牛を守る事も大事ですけども、浪江に残ったお父さん、結構心配されたり、やっぱり、放射能がある訳ですし、残ったお父さんを心配したり。
石井さん:そうなんです。だから、その辺がね、いい加減ではないけどある程度ね、大人としても自分の事は自分なんだなって思って。心配し始まったらどうしようもないよね。あん時、電気も停電なって何もない、石油ストーブがあったからしのげたけど。
インタビュアーA:3月で雪も降りましたもんね。すっごい寒かったですよね。
石井さん:すっごい寒くて。
インタビュアーA:しかも、標高高いとこですもんね。
石井さん:標高高い、420ぐらいの高いところで。でもね、寒さは慣れてたしね。ほんでね、普通、電気が止まると水が止まるんですけど、うちは山水をね、引水はあったんですよ。引水で、牛にも引水を。うち、ずっと遠くに裏山があって、山に石のね、中から水がコンコンって湧き出る山があったんですよ。水源地があってそこから牛に水をホースでね、飲ませる。あと、私らもそういう水を。
インタビュアーA:沢水を震災前から引かれてたんですね。
石井さん:そうそう。だから、牛にもこの水をね、切らす事なく飲ませる事できたし。
インタビュアーA:それは大きいですよね。
石井さん:そうなんです。今でもね、水は沢水。
インタビュアーA:そうなんですね。
石井さん:私はね、その沢水を利用して一番上には葉わさび、本わさび、わさびを作付して。
インタビュアーA:めちゃめちゃ綺麗な水なんですね。
石井さん:そう。めっちゃ綺麗な。その次にクレソンを植えて、一番下のほうにね、下手にはセリを植えて。わさびと、クレソンと、セリと。
インタビュアーA:最高ですね。
石井さん:最高。それで、震災後ね、その葉わさびは収穫っていうか検査できなかったんだけど、クレソンが80ベクレルあったのかな。それね、毎年白い花が咲いて、本当にね、沢水が綺麗じゃないと収穫できないところだよね。そういうクレソンも真っ白にね、6月、7月はもうクレソンの鼻が真っ白に咲く良いところなんです。
インタビュアーA:綺麗ですもんね。
石井さん:そう。
インタビュアーA:珍しいですよね、クレソン植えてる人って。
石井さん:うん。そうだね。
インタビュアーA:わさびも珍しいですけど。よっぽど条件の整ったとこじゃないとつくれないんで。
石井さん:本当に石のね、大きな石の間からコンコンってね、1年中枯れる事ない水が吹き出てたのね。
インタビュアーA:それはいつ発見したんですか。
石井さん:それは、うちの人が酪農始めるつった時に水を引っ張ってこなきゃなんないって事になって、あそこに沢があるから、その上、水源地見ようっていって、うちの人は高校のね、畜産科だったんですよ、小高農工のね、そこで畜産、自分もやりたいって思ってそれでうちのじいちゃんも1頭か2頭やってたのかで本格的に始まったのがうちのお父さんが卒業してからなのよ。
インタビュアーA:それまでの1頭、2頭っていうのは経営的にとかっていう事ではなく、昔の人、うちの地主さんとかもそうですけど一家に1頭みたいな感じで飼ってる感じの。
石井さん:そう。その程度で飼ってて。
インタビュアーA:牛フンを取るためとかそれぐらいの。
石井さん:そうそう。農耕馬みたいな感じの。
インタビュアーA:農耕牛。
石井さん:ですね。うん。そんな感じでやって、それでうちのお父さんが、俺は畜産のほう専門的にやりたいっていう事なって、北海道から牛を買ってくるから、じゃあ、誰かやる人っていってうちのお父さんがね、色々周りの人達と勉強し合ってそれでうちは酪農を始めたのね。
[00:40:09]
インタビュアーA:その前までは和牛だったんですか。その1頭、2頭。
石井さん:そうそう。
インタビュアーA:なるほど。
石井さん:だから、乳搾るっていうあれではなくって、前はね。私、まだそん時は嫁に行ってなかったからちょっと分かんない。
インタビュアーA:そうですよね。
石井さん:その後、うちのお父さんが高校卒業してからのこの乳牛を買って。最初はそんなに頭数もいなかったけどそれでやってたのね。それで、水を、それから3~4年してからかな、牛舎を建てた。それも補助金か何かで、補助金でもって牛舎を建てたんでしょうけど、あと、牛も導入しなきゃなんなかったからね。その頃から北海道の畜産大学とかに行ったり、周りの人達がね、うちのお父さんは行ってないけど、周りの人達が行ったりとかしてて酪農とはとか乳牛とはっていうそういうのね、酒飲みながら夜ね、集まって話ししたりとか。
インタビュアーA:そんな地区だったんですね。
石井さん:そうだったんです。
インタビュアーA:酒飲みながらそういう話をしてる。
石井さん:話をしてて。
インタビュアーA:なるほど。
石井さん:私が結婚する前はそういった仲間意識っていうのかな、そういうのがたくさんあったらしくて。みんなが何かをやりたいつったらみんなで協力し合うってのが、その頃からのね、ずっと。
インタビュアーA:文化みたいな感じだったんですね。
石井さん:そう。だから、1人ではなかったから力強かったのかもしれないね。うちのお父さんもこれ分かんなければ大学での専門的にやってきた人達の色んな意見を聞いたりとかしてやってたみたいです。
インタビュアーA:最初は何頭で。
石井さん:最初はね、4頭かな。4頭から始まったって言ってたな。
インタビュアーA:それでも高いですよね。最初牛買うのも。
石井さん:そう。
インタビュアーA:1頭何十万もしますもんね。
石井さん:そう。
インタビュアーA:それをどういう感じで増やされていったんですか。
石井さん:最初は、やっぱり、オスとメス、メスはもう自分家で育ててそれをあれするんだって、乳搾るだっていう風になってて、オスが産まれる場合、それは生活の資金にするっていう事で。メスが産まれれば本当に可愛がって。
インタビュアーA:名前とか付けてたんですか。
石井さん:もちろん、付けてたみたいで。私はよく分かんないんだけど。可愛い名前を付けてたりとかして、カタカナで色々なんとかかんとかって。
インタビュアーA:乳牛はカタカナですもんね。
石井さん:うん。そう。アルキメデスなんとかかんとか。
インタビュアーA:長いやつ。
石井さん:長いやつがあって。みんな名札付けて。
インタビュアーA:名札を付けてたんですね。
石井さん:名札付けてて。
インタビュアーA:そうですよね。名前付けてる方すごい多くて。
石井さん:そうそう。
インタビュアーA:和牛はみちこさんとか、さくらとか、何かひらがなで3文字ぐらいが多いんですけど。
石井さん:そうだね。
インタビュアーA:乳牛はオシャレな。
石井さん:そうですね。
インタビュアーA:名前呼んだら牛も反応してましたか。旦那さんに。
石井さん:反応してました。
インタビュアーA:そうですよね。
石井さん:怒る時のお父さんの、あの紙芝居にも出てきたけど、怒る時って本当にね、牛の気持ちが分かるんでしょうね、牛もしてお父さんの毎日ね、一緒にいるから、朝晩一緒にいるから分かるんだと思うのね。意思が通じ合ってんだなって思う。私らは行くと、自分がいい、みーちゃんとか、さーちゃんとかね、なんとかって言うじゃない。
インタビュアーA:言いやすくしてるんですね。
石井さん:そう。違う、それは違うとかって牛、言ったりとかして。でも、こっこが産まれて初乳を飲ませるじゃない、そういうのは私の仕事で。本当に可愛いがったし、乳牛って夜中がお産が大半で、朝方のね、産まれる時間が多くて、そういう時になんでかんで1人ではね、できないくて、私はいつも駆り出されてたんだけど。お産する時、子供が産まれる、なかなか夜中で大変なんです。
[00:45:02]
インタビュアーA:ですよね。ずっと付き添ってないといけないって大変ですよね。
石井さん:それも、足がこうやって出来てたら足首をチェーンブロックでね、ギリギリって引っ張んなきゃね、乳牛って出てこないのよ。和牛とは違う。
インタビュアーA:そうなんですね。
石井さん:そう。それで、引っ張んのも男1人でダメなんですよ。息子達、2人、3人っていたからうちも、誰か彼かには手伝ってもらって。私も引っ張り出して。必ずね、そういう苦労したっていうか、楽しかったんだけど、今考えれば楽しいんだけど、朝方2時頃、2時、3時頃なのよ。
インタビュアーA:みんなフラフラですよね。
石井さん:そう。明日、仕事に行くよってのは。
インタビュアーA:毎日サボれない仕事だからヘロヘロのフラフラですよね。
石井さん:なりますね。でもね、それが楽しかったっていうのがね。子供達も、子供が産まれる時にね、なんでこんな小さな穴から出てくるのみたいなね、うちの子供達もよく言って。そうなんだよって。
インタビュアーA:子供達も一緒にいたんですか。
石井さん:そう。もちろん子供達にも、男の子3人ね、こうたいこうたいに手伝ってもらって。
インタビュアーA:夜中の。
石井さん:夜中に。
インタビュアーA:子供達も鍛えられましたね。
石井さん:そう。
インタビュアーA:すごく学べた。
石井さん:学べたね。やっぱり、子供が産まれれば、ぬるなるから藁で拭いたりとかね、そういうのも手伝ってもらったりとか、あとは初乳を飲ませなきゃなんない、なんでかんでね、飲ませるからそれをお父さんが手で搾ってきたら必ず、その、飲ませてね。
インタビュアーA:子供達が飲ませてた。
石井さん:飲ませたり。私が体を拭いてあげたりとかして、必ずそういうのはみんなでやってたから。
インタビュアーA:家族でみんなでやってたんですね。
石井さん:そう。
インタビュアーA:聞いててイメージ湧いてきて。楽しかったとおっしゃるのは、つらい事、苦しい、当時はそう思ってたけど今思うとその時がその時代は楽しかったなってみなさん言われるんで。
石井さん:だね。
インタビュアーA:聞いてて温かい感じがしますね。
石井さん:んだね。
インタビュアーA:苦労もみんなで分け合うみたいな。
石井さん:そう。初乳って検査しないうちは出せないじゃない。
インタビュアーA:そうですね。
石井さん:出荷できないよね、乳牛の乳はね。だから、それを私は必ずうちに持ってって豆腐にして、牛乳豆腐っていうのつくって。初乳でつくるんですよ、豆腐を。
インタビュアーA:つくれるんですね。
石井さん:初乳でないとできないの。
インタビュアーA:そうなんですか。
石井さん:そう。産まれたばっかりの初乳を。
インタビュアーA:ちょっと成分違うっていいますよね。
石井さん:違うからあれは出荷できないのよ。捨てるものなのよ。
インタビュアーA:子牛に。
石井さん:飲ませて。
インタビュアーA:まだ余ったものに関して。
石井さん:余ったものを、それを持ってって、湯煎をかけて、湯煎をかけると豆腐になるの。
インタビュアーA:にがりとか何か入れないで。
石井さん:入れない入れない。酢も何も入れない。
インタビュアーA:それで固まるんですか。
石井さん:固まるんです。一回湯煎してみて。
インタビュアーA:初めて聞きました。
石井さん:そうなの。
インタビュアーA:初乳で牛乳豆腐。
石井さん:そう。それで、うち、ブルーベリーとかつくってたからそれを食べたり、入れてね。ヨーグルトみたいな感じ。
インタビュアーA:初めて聞きました。すごい栄養高そうですよね。免疫力とかも付きそうな。
石井さん:そう。捨てちゃうんならちょうだいつって、酪農家はみんなね、そういう風にしてつくって飲んでたし、私も行って、お湯沸かして、ボールにその初乳をもらって、それを沸かして、コトコトと湯煎すると豆腐になるのよ。それは酪農家ならではの教えだった。
インタビュアーA:貴重品じゃないですか。出回ってないから誰も食べれない、知らないと思います。
石井さん:そう。今度そうやって食べてみて。湯煎するだけでいいから。
インタビュアーA:固まるんですね。
石井さん:固まるんです、初乳って。
インタビュアーA:不思議。
石井さん:それはみんなも食べたくて、私の友達が食べにきたりとかして、持ってったりとかね。お弁当とかに入れて持ってったりとか。
[00:50:06]
インタビュアーA:みなさんそうやって生活をエンジョイしてるっていうか。ブルーベリーもつくってらっしゃって、それを乗っけようっていうアイディア誰が。
石井さん:ジャムにしてた。
インタビュアーA:ジャムにしてたんですか。
石井さん:ジャムにしておいたからそれを乗っけて食べたりとかね。
インタビュアーA:もとから何か色々されてたんですね。
石井さん:そう。自分で好きでつくってたし。
インタビュアーA:趣味。
石井さん:趣味で。仕事でもそういう産業振興課っていうとこに以前いたから、産業振興課は何もないところから宝の山だよねっていう事で、また話すると長くなっちゃうからあれなんだけど、そういう自然のものを加工したりっていうのが私のこの仕事、職場だった。
インタビュアーA:そうだったんですね。六次化って言いますよね、今ね。
石井さん:そうそう。
インタビュアーA:震災前からそういう事されてたんですね。
石井さん:やってたの。周りの人達に聞くと、ブルーベリーよりももっとアントシアニンが、メガネ外れるぐらいのね、私も仕事してた時はメガネかけてたんだけど、メガネもう要らないって言われてメガネ外してたのがそのブルーベリーよりもナツハゼっていう、山にね、自生してる。
インタビュアーA:なんか聞いた事ある。
石井さん:あるでしょ。
インタビュアーA:でも、見た事はないですね。
石井さん:ない。山には、多分、大熊とか浪江のほうの山にはたくさんあるの。
インタビュアーA:そうなんですか。
石井さん:うち、山持ってたでしょ。
インタビュアーA:そうですよね。
石井さん:だから、これ何だろうって、あ、これがナツハゼだよとかって言われて。
インタビュアーA:ブルーベリーみたいな感じなんですか。
石井さん:ブルーベリーみたいな粒、小さいやつなんだけどね。
インタビュアーA:アントシアニンがすごい。
石井さん:そう。アントシアニンが7倍含まれて多くなる。
インタビュアーA:すごいじゃないですか。
石井さん:だから、もう、私、産業振興課でそういう事も分かったし、ジャムつくりもやってみようって事で。ブルーベリーは、あの頃、上り坂で誰でもがつくってる。うちは堆肥あったでしょ、それでそのブルーベリーもつくって土も良い土にしてたし、裏山にナツハゼがたくさんあったのよ。
インタビュアーA:敷地の。
石井さん:敷地の。
インタビュアーA:すごいですね。
石井さん:それを山では1粒、2粒、10粒ぐらいしかならないものが、あと、牧草の畑の周りに植えてあげて、そうすっと、肥料も自ずとするじゃん、堆肥で土を耕したら。そこに植えてたら1本の木から1キロも2キロも。
インタビュアーA:すごいですね。堆肥効果。
石井さん:そう。堆肥効果ってすごいのよ。
インタビュアーA:10粒ぐらい、20粒ぐらいのが1キロ。
石井さん:1キロ、2キロ。大きい木になると3キロぐらいに実るんですよ。すごいでしょ。
インタビュアーA:考えられないぐらいです。
石井さん:そう。そういうのを仲間みんなで、シバタアケミちゃんとかね、みんなね、そういう若い子がこれはこうなんだよとかああなんだよとかって、子供を育てる中でそういう食べ物もね、果物もおやつとしてそういうのを与えてるっていうのをみんなでね、それを。私はそのナツハゼを1軒の家で5本以上植えましょうっていうそういう運動もしたのね。そしたら、みんなそれぞれに植えて、うちの屋敷に植えて、周りに植えて手入れをし始まって。5~6年したらこの震災だったから。
インタビュアーA:そうなんですか。
石井さん:そういう事をやって、牛ね、乳牛のおかげでうちは堆肥つくりを畑にとか山にとかね、そういうのでもってやってました。
インタビュアーA:循環してたんですね。
石井さん:そう。だから、全てにおいて良いものをね、何もない山、浪江の津島、赤宇木地区って何もないってみなさん、先輩が言ってて、いや、違うでしょって、山菜あるでしょ、秋はキノコあるでしょ、果物だって色々な食べる物があって、おやつがあって、本当にね、うちの裏山ってすごいかったんなって思って。
インタビュアーA:都会の人が欲しても手に入らない、本当に恵まれた山だと思います、私は。昔はあまりそういう感覚なかったですけど、今はすごくそれがどんだけ貴重かっていうのは色んな方から聞いて分かります。
[00:55:01]
インタビュアーA:郡山とかうちの地主さん達はいわきとか大都市に住んでるんですけど、多くはあそこのタラの芽と、ワラビと、コゴミ、ポテトサラダで。あそこの生活が何よりも代えがたくて。ここは草が1本もないって言って、やっぱり、体調崩されてたりとか。
石井さん:そうなんだよね。
インタビュアーA:自然の中でそこの恵をいただきながら自由に生きるのとまた。
石井さん:そういう面で、これから、ふるさと返せの裁判に、津島地区っていうのが裁判を起こしてるんですね。
インタビュアーA:そうなんですね。
石井さん:今年の7月に仙台で判決言い渡されるんですけど。
インタビュアーA:そうなんですか。
石井さん:ずっと何年もやってて。私、裁判長に口頭弁論した時に、この乳牛もうちはね、紙芝居を読んだんです、私。
インタビュアーA:そうなんですね。裁判の時にもね。
石井さん:普通は裁判の時って原稿を見たりとか、紙を、ペースを読めないんですよ。それを、すいません、裁判長、私、紙芝居を全国に行ってやってるんですけど、ちょっとだけ、1節だけ読まさせてください、こういう思いなんですよっていう事で牛の気持ちを読まさせてもらったんですよ、初めて。
インタビュアーA:そうなんですね。
石井さん:それがね、判決が下るのがね、今年の7月に判決下るんですけど、どうなるかは分からないけど、そういう私らがね、生き物と一緒に生活をしてて、循環型の農業で全てにおいて自給自足っていうのをやって生きて。
インタビュアーA:充実されてたんですもんね、すごいね。
石井さん:そう。だから、今、こういう福島市のね、ここは、私が住んでるところは今ね、町の中なんですよ。そこがすごく住みづらいってか、周りの人の冷たい目、あんた達は東電のほうからね、お金をもらってるんだよね、いくらぐらいもらってるのみたいなね、そういう風な言われるとグサッときて、お金じゃないでしょうって。ふるさとがもうね、それこそ汚染されて帰る事ができない、今でもね。行ったとしても放射能は、解除されたとしても、もう作付できない、100年は作付できないって言われて。
インタビュアーA:そうなんですね。
石井さん:除染したからいいでしょっていうものではなくて。
インタビュアーA:表土剥ぎだとね、栄養分がなくなっちゃいますよね。
石井さん:なくなるでしょ。それだって、やっぱり、30年、50年ってかかるし。住むところは除染されても周りの山のところから水が流れてくる、それにまた含まれてきてもその繰り返しだって事がそれはもうね、明らかに分かる事だし。私ら裁判、去年、一昨年かな、裁判長にみんな全部、地区、私達が700何十人って起こしてるんだけど、要点だけを見てもらって、こういうところで、こういう口頭弁論した時のこの理解をしてもらうためのこの弁護士とかにね、弁護士じゃなくてこの裁判、東電の人達とか裁判の関係者の人達に見てもらった、現状を見てもらったっていう事もあって。何もないところだけどそれなりに。
インタビュアーA:全てがあったんですね。
石井さん:そうだね。
インタビュアーA:人との繋がりとかもないですもんね、この辺だと。
石井さん:ここではああいう。
インタビュアーA:みんなが身近な家族、1つの家族みたいな感じで、みんなで住める感じじゃないですもんね、福島市は。
石井さん:そうなんですよ。
インタビュアーA:大都市ですもんね。
石井さん:うん。山奥にこうね、ぽつんと一軒家でなくても住みたいなって思うけど、今、生きてかなきゃなんないでしょ。生きてかなきゃなんない、家族をね、離れてはいるけど、家族とね、一緒になる事はできないですよね。
インタビュアーA:浪江町でもされてますよね、えごまつくって。
石井さん:はい。
インタビュアーA:通ってるんですか。
石井さん:通ってる。
インタビュアーA:すごい遠いですよね。私、今日来たけど2時間半ぐらいかかりました。
石井さん:かかる。
[01:00:00]
インタビュアーA:大熊から。
石井さん:そう。私も行くのには2時間、114号線を通って自分の自宅を横目に見て114号線に来て。
インタビュアーA:津島通ってますもんね。
石井さん:そう。なんで浪江にえごまをつくり始まったのかっていうと、私は福島では種を切らさないようにって二本松でも作付、畑を借りて作付して種をつくって、今、福島に農地をようやく5年前に買ってそこで作付も始まりました。でも、やっぱり、この震災で浪江町っていうね、町が日本地図から消え去るのは嫌だって思ったのがそもそもで、私も浪江の仲間がいっぱいいたじゃない、その人達に、公務員っていう給料の出どこが町民の税金でもって私ら働いてたよね、牛は酪農だから酪農で食べてたけど、うちの嫁さんも役場職員なのね、2人で役場にいて給料町民からいただいてて何もしないっていうあれないよねっていう事なって恩返しをちょっとね、大げさかもしれないけど、できるかできないか分かんないけど恩返しをしたいって思ってて、それでえごまを浪江につくれものだったら農地を借りてでつくってみようかっていう事で、それで友達に、2反歩から始まって、じゃあ、俺の、ただ復興組合で畑を除染した後草刈ってうなうだけだから、石井さんえごまでもつくってみたらいいんでねーかって事で、その頃はみなさん帰ってなかったから試験栽培っていうのを普及所と相談して、試験栽培をするから検査をしてちょーだいって言ってでそれで浪江に2反歩から浪江始まった。そしたら、茎も実も放射能は不検出だったのね。
インタビュアーA:茎もでしたか。
石井さん:茎も。
インタビュアーA:油だから出ないっていうのは、菜の花でも聞いてたからえごまも賢いなと思ったんですけど。
石井さん:根っこ掘り上げると根っこから出たの。
インタビュアーA:茎にはないんですね。
石井さん:茎には含まれなかったんだよ。それで、これは、毎年毎年、茎を循環型農業にするためにその茎はそこの土に戻せばいいやって思って、実は実で油を搾ってで油を搾ったのも全部普及所のほうで検査したんだけど不検出だった。
インタビュアーA:そうですよね。
石井さん:という事で、それから田んぼにも植えてみようかっていう事で次の年、田んぼにも作付したのね。ハタケヤマさんっていう人が、じゃあ、タダで貸すから栽培してくれないかっていう事で、まず、放射能検査しますって事で何隅かね、測った。測ったんだけど、今度は800ベクレル。
インタビュアーA:土壌からですね。
石井さん:土壌で。
インタビュアーA:それぐらいありますよ、解除後も。
石井さん:うん。それで、ある程度田んぼはなかった、国道沿いのほうはなかったんだけど、国道から一歩入って、奥の方に入ればその土の中から15センチのところで出ちゃったのね、放射能が。これはやばいって。でも、全部が全部出た訳じゃない、その1角だけからでちゃったのね。それで、今でも放射能検査してくれてる人達が、今、最初は測ったのは土地改良区で測ってもらって、その後は京都の立命館大学のアンザイ先生が来てくれてそこで測ってくれて、それはただ単なる一部だけ、周りは全然ないのにそこの土だけが。
インタビュアーA:スポット的に。
石井さん:スポット的にあったから、これは重機でもって、たまたま、そこに放射能のくっついてる土がそこにきたんだろう事で。それで、でも、田んぼでも実には何もないんだけど、検出されないんだけど、やっぱり、土があったって事で、じゃあ、周りの土手は大半は測ってない、除染してないからそこを測ってみようつったら、やっぱり、そこはあって。あと、ヨモギ測ったらヨモギからも出たのよ。
[01:05:03]
石井さん:だから、もう、大半は除染してないところからは出るっていう事が分かって、そういうのも実証されて。だから、これから先、ホットスポットも色々ね、あるけど、検査して自分が納得した数字が出るまで除染をお願いしたりとかね、そういうのをしていかないと難しなと思ったのね。それで、これから浪江にも、多分、牛舎のでっかいやつ何かやるよね、今度。
インタビュアーA:請戸のほうでですか。
石井さん:うん。
インタビュアーA:復興組合系の。復興牧場ができるとかっていうやつですか。
石井さん:復興牧場が立ち上がるみたいな事も言ってっけど。
インタビュアーA:それ、最近言ってますか。
石井さん:言ってます。
インタビュアーA:最近。
石井さん:うん。
インタビュアーA:そうなんですか。
石井さん:うん。そっちのほうにも、今度、草をつくったりとかね。試験的に今やってるみたいだから段々とそういう酪農っていうかね、そういった牛のほうも増えていくのかなって思ったのね。
インタビュアーA:また草は石井さんがつくられるんですか。
石井さん:いや、もうやらない。
インタビュアーA:やんない。
石井さん:機械も全部ないのさ。浪江の機械は。
インタビュアーA:一式揃ってないとできないですもんね。
石井さん:そう。
インタビュアーA:ニシさんとかがやるんですかね。
石井さん:どうだろう。
インタビュアーA:前、やりたいみたいに言ってたけど、結局、話がなかなか進まなくて地権者の6割の人は反対したみたいなそういうのがあったとかで。でも、進んだなら。
石井さん:いや、進んでる訳じゃないけど、町としてはそういうのやりたいっていう。復興牧場っていうか。
インタビュアーA:すごいですもんね、あそこ。農地その管理ってすごく大事。
石井さん:そう。米を乾燥する機械なんだっけ。でっかい機械。
インタビュアーA:カントリーエレベーターじゃなくて。
石井さん:うん。カントリーエレベーターも浪江では2機つくるのよ。
インタビュアーA:そうなんですか。楢葉は1個ですね。
石井さん:1個。苅宿と、あと別のほうに。
インタビュアーA:1個だったような気がする。
石井さん:2個つくるのよ。酒米もね。
インタビュアーA:2400ヘクタールありますもんね。浪江はね、全部で。楢葉はそんなないから1個なんだと思うんです。
石井さん:サツキさんって大熊だっけか。
インタビュアーA:私、今、楢葉に住んでます。
石井さん:楢葉か。だよね。
インタビュアーA:あっちの牛がいるところは帰還困難区域なので全然。土壌も8000ベクレルとか。
石井さん:やっぱりある。
インタビュアーA:うん。帰還困難の中ではまだ低いほうですけど。
石井さん:そうね。これから、だから、どのような産業を興すのかね、浪江なんかも太陽光がどーんと。
インタビュアーA:結構あちこちできてますよね。
石井さん:できちゃったからね。だから、どのようにしたら、復興されるのか、今、浪江町が、浪江町と言わず浜通りが、相双地方が復興するのには、やはり、それなりの商業施設も必要だし全てにおいてやってかないと。それも個人でやるよりもそういった組織ね、法人格でやってくしかないのかなって思って。
インタビュアーA:昔みたいに個人とか家族で全てを担うにはあまりにも広いところを少ない人数でやんなきゃいけないっていう事でしょうか。
石井さん:そうですね。だから、やるんだったらこじんまりと自分達ができる範囲でやらなきゃなんないし、そして、若い人たちが3人、4人ってね、農業法人だったりとかそういう法人格でやるのであれば、今、そういう補助金がね、出てる中でリース事業とかね、そういうのが今あるんで、そういうのでやるしかないのかなって思ってる。でも、私はできないから若い人達に託すしかないなと思って。
インタビュアーA:実際にやってますもんね、3人、4人ぐらいでやってますかね。3人かな。
石井さん:イズミ君の話。
インタビュアーA:はい。
石井さん:そうだね。
[01:10:00]
インタビュアーA:あまり詳しくないんですけど、確か、会社立ち上げたんですよね。
石井さん:そう。イズミ君と、オオタカ君と、アマノ君3人でね。男の子3人で、今では3年前に東京都庁に販売に行ったのね、えごまをね、加工品だったりとかね、その時に彼は新幹線の帰りの電車で、石井さん、俺、えごまをやりたいってなって、えごまをやるのには1年間お手伝いしてもらってて分かってて、俺えごまつくりやりたいって事で段々ともうそういった組織にしなきゃなんないし、やっぱり、新規就農認定農家っていうのでね、そういったのやったほうがいいよって言ってようやく認定農家も、多分、認められんのかな。それで、去年、自分でも1町歩、イズミ君はえごまをつくって。そしたら、去年の反省の中でね、反省会の中で、俺、日本一のえごま農家になりたいって言ってくれて、だったらそういった組織をつくって、そういった補助金を受けて、リース事業で、機械を揃えてってでこうやったほうがいいよって言ってね、そんなで彼らは今動いてます。ちょっといい。
インタビュアーA:はい。
石井さん:暑いべ。
インタビュアーA:すいません。なんかこれすごい暑くなってきた。
石井さん:脱ぎな。
インタビュアーA:このファスナー動かなくなって脱げなくなっちゃった。
石井さん:脱げなくなっちゃった。
インタビュアーA:だから、これでパタパタしてます。すいません。
石井さん:止める。
インタビュアーA:寒いですよね。大丈夫です。
石井さん:ごめんね。さっき言ったナツハゼをね、ちょっと飲んでもらうかなと思って。
インタビュアーA:あるんですか。ナツハゼ。
石井さん:ナツハゼの。こういう風に、これでナツハゼを。現物もあっちゃうんだな。これをね、私がたまたまこういう風にして。
インタビュアーA:じゃあ、自分がつくったやつですね。
石井さん:そうそう。
インタビュアーA:すごい。
石井さん:自給自足だから。
インタビュアーA:最高ですね。理想なんですけど、自給自足は。
石井さん:自給自足、理想でしょ。
インタビュアーA:そう。やりたいんですよ。
石井さん:やりたい。
インタビュアーA:うん。本当にすごいと思います。
石井さん:これね、酸味があるからね。
インタビュアーA:いただきます。香りからしてすごい良いですね。
石井さん:あっそう。飲ませてあげたいね。
インタビュアーA:本当。これ、今、いただきました。
石井さん:ナツハゼ。
インタビュアーA:ナツハゼティー。
石井さん:ナツハゼテー。ティー。
インタビュアーA:ナツハゼテイ。
石井さん:分かる、ナツハゼって。
インタビュアーC:初めて聞きました。
インタビュアーA:分かりますか、ナツハゼ。
インタビュアーB:よく聞きました。
石井さん:そんな事で。
インタビュアーA:コニシさん、他聞いてない質問、今の話に大分含まれてたはずなんですけど、まだ足りてないのを聞いてっていただけますか。
インタビュアーB:はい。牛の全部の頭数を聞きたいんですけど。
石井さん:うち、35頭です。
インタビュアーB:35頭。
石井さん:はい。
インタビュアーA:コニシさんって今入力しながら聞いてますか。
インタビュアーB:いや、聞くまではしてたんですけど。
インタビュアーA:分かりました。じゃあ、ちょっと、私のほうで入力するので聞いてってください。
インタビュアーB:分かりました。
インタビュアーA:ちょっと、こっち側のビデオカメラ電池切れになっちゃったんで、手が空きました。
インタビュアーB:はい。
インタビュアーC:35頭は多いんですか。実際の中では。
石井さん:普通かな。うちのお父さんが1人でやるのにはもうちょうどっていう。1人でやるのには35頭が。乳搾んなきゃなんなかったしね。
インタビュアーB:そのうち、子牛の頭数は何頭くらいでしたか。
石井さん:子牛。
インタビュアーB:はい。
石井さん:15頭ぐらいは子牛かな。20頭ぐらいは搾乳。
インタビュアーB:牛は、話でもちょろっと出てきてはいたと思うんですけど、正確な、いつ頃始めたとかって。
[01:15:01]
石井さん:始めたのは。
インタビュアーA:昭和何年とかあるでしょうか。
石井さん:昭和。
インタビュアーA:そんな細かくは分かんなくていいです。大体。
石井さん:うちのお父さんが。
インタビュアーA:18歳ぐらいの時ですもんね。
石井さん:そうそう。うちのお父さんが18から始めてるから。
インタビュアーA:今73歳ですか。
石井さん:73歳。
インタビュアーA:後で計算するので大丈夫です。
インタビュアーB:ありがとうございます。
インタビュアーA:搾乳が20頭でしたね。
石井さん:はい。
インタビュアーA:はい。乳搾ってたのは電気でですよね、もちろん。
石井さん:うんうん。もちろん、あのカパッカパッていうやつのと、あと手でも搾ってたけどね。
インタビュアーA:手でも搾ってたんですか。
石井さん:産まれた牛は手で搾ってるから、必ずね。
インタビュアーB:震災前の2010年ってどういった状態だったのかっていうのをお聞きしたいんですけど。
石井さん:震災前は、草も、一番草、二番草、三番草って収穫してたからそれが主な仕事としてやってたし、冬場はそんなにはなかったけど、堆肥ね、堆肥の切り返はもう毎日10時、11時。
インタビュアーA:冬も。
石井さん:冬も、もちろん。もちろん冬もやって、あと、良い堆肥をつくったりとかしてて、その堆肥は夏場にはもう全部草地にね、戻して、全部ブロードキャスターだって言うんだっけ、それで振り撒いたりとかして。そういった草づくりも自分達でやってて。
インタビュアーA:本当に一式揃ってたんですね、機械とかもね。
石井さん:全部ね。
インタビュアーA:放牧はされてたんですか。
石井さん:放牧はしてない。
インタビュアーA:してない。でも、完全に10町歩のうちの10町歩が草地。
石井さん:草地。
インタビュアーA:山を切り開いた。
石井さん:切り開いて、あと、1町歩ぐらいは田んぼ、うちあったんで、田んぼもにも減反で牧草を蒔いてたから。
インタビュアーB:震災当時ってその浪江町に住まれてたと思うんですけど、震災が起きた時はお家にいましたか。
石井さん:あの時、私は診療所のとこに働いてたから、看護師ではないんだけど事務だったから、看護師は3月11日は、診療所ってちょっと高台にあって目の前道路あったんですけど、道路の両脇には家がたくさんあってみんな古い家だったんで瓦屋根がね、こうトーントーンって落ちて道路に瓦が飛んで、車の屋根に瓦が飛んだりとかを目のあたりにしてきたんですよ。その当時、本当になんなんだろって、この異常な瓦が飛ぶなんていう状況が今までなかったから初めて経験した事が、これが地震の恐ろしさなんだなって思ってね。学校も裏に小学校、うちの孫達が通ってた小学校あったんですけど、もうキャーキャーっていう声がね、聞いてたんですよ。子供達ももう外に、校庭に出たんだなって思って。その時、うちの孫が小学1年生だったんですぐにそういう声が、校舎の中からみんな校庭に出された時の声だったんだなって思ったのね。そん時には、私は、うちには、もうそれからね、3日、4日、うちに帰れなかったのよ。
インタビュアーB:そうだったんですね。
石井さん:うん。地震があって、色々ものが壊れたりとかして、整理したりとかして、うちに帰れない、もう先生の自宅と、その診療所っていうのを守んなきゃなんない立場だったんでうちに帰れなくって、うちの嫁さんはたまたまお産があったから産休で休んでたから、うちの嫁さんがうちにいたからね、うちのほうは任せて、私は患者対応、先生とかのほうのごはんとかね、食べさせなきゃなんないっていう事でこっちの診療所で私は待機して、この町民を、あん時金曜日だったんで、でも、みなさん怪我はしたりとかではないけど、具合悪くして透析してた人達がたくさんきてましてね、そういう対応が大変でしたね。あと、明日から休みだって、土日は休みだったから、もうそん時の対応がそういう患者さんがくれば大きな病院に紹介しなきゃなんない、それで、そういう対応が結構大変で。
石井さん:でも、やっぱり、看護師さん達も一回家に帰して私1人で診療所守ってたんですけど、そん時に、うちの事とか周りの事は考える余裕がなかったっていうのかな、私にしてみれば。看護師さん達もみんな小さい子供さん達がいたりとかしてたんで、もうすぐに家に帰して私が1人でやってたんだけど、次の日、被災にあってる人達を受け入れてくれっていう電話が入って、それでまた大変でしたね。そんなに薬も注射液なんかもそんなに多くは仕入れてなかった。1日40人しか見れないというところのこの山間の僻地診療所だったからそんなにね、多く受け入れるっていう事はしなかったんですけど。そん時、みなさんは、やはり、自分の事を身を守るので精一杯だったですね。
インタビュアーB:石井さんが最後に見た牛の状態とか何かあれば教えていただきたいんですけど。
石井さん:私が牛はね、その時から全然牛は見てないくて、お父さんに色々聞く訳よ、後でね。
インタビュアーB:はい。
石井さん:そして、あの何番目の牛はどうだったとか、あそこにいた牛はどうったとかって聞くと自分もね、悲しくって喋れない、お父さんが。私にそういう事教えようにも自分がつらくなってお父さんは私に喋る事もできないぐらい、もう、本当にすごい壮絶っていうかね、大変なもんだったんだろうなって。だから、私が色々、あの牛どうだったの、この牛どうだったのって聞いても、もう、自分もね、思い出したくないっていうかね、可哀想で。殺処分した牛はどことどの牛とかって言ってもそれは聞くなって言われたのね。もう可哀想で、俺もう喋れねーって言われて。うちのお父さんが最後のほうの牛を看取った訳だけど、本当にね、喋る事が今でもできない。
インタビュアーA:看取ったって事はその殺処分の時に。
石井さん:全部立ち会ってね。
インタビュアーA:そうですよね。紙芝居だと震災直後の牛達はまだ結構、揺れたけど特にそこで畜舎が崩れて死んだとかそういうのはなかった。
石井さん:なかったんですよ。
インタビュアーA:ですよね。畜舎は特に倒れたりとかはしてなかった。
石井さん:頑丈だったね。つくりがコンクリートで全部したね。
インタビュアーA:基礎。
石井さん:うん。基礎やってて。あと、鉄筋で全部組み立てられてたからみなさん頑丈で崩れる事なく。うちは壊れなかったね。
インタビュアーA:そうなんですね。土砂崩れとかも特になかったですか。
石井さん:うちはない。みんな、赤宇木地区の酪農家はなかったみたいで。
インタビュアーA:そうなんですね。赤宇木はなかったんですね。
石井さん:うん。
インタビュアーB:自宅からその畜舎までの距離とかってどのくらいの。
石井さん:歩いて5分。
インタビュアーB:歩いて5分。
石井さん:うん。
インタビュアーB:いつも歩いて畜舎まで。
石井さん:そう。歩いて。うちの人はもうトラックでね、どこにでも行けるようにトラックで行ってたけど、歩いて5分の近くの。
インタビュアーA:ちょっと、さっきのなんですけど、畜舎崩れなくて、それで牛達は元気といえば元気な状態だったんですね、その直後は。
石井さん:そう。
インタビュアーA:水も沢水が止まるっていう事はなかったんですか。
石井さん:なく。
インタビュアーA:餌も1年分ストックがあった。
石井さん:あったから、餌も。
インタビュアーA:旦那さんはずっとそれをあげ続けていた。
石井さん:そう。でも、搾乳しないと乳房炎になっちゃうから、だから、量を、餌を徐々に減らして乳を張らないように対策をしたって言ってましたね。
インタビュアーA:配合はあんまりあげなくした。
石井さん:そう。
インタビュアーA:搾乳できないのは電気がないからっていう事ですよね。
石井さん:いやいや。
インタビュアーA:電気はあったんですか。
石井さん:うん。電気は普及所あったんだね、あったのかな、どうだったんだろ。でも、電気がこなくても手で搾れたから。
[00:05:10]
インタビュアーA:35頭、手で搾るって大変なんじゃないですか。
石井さん:大変だけど、それやって。
インタビュアーA:やれる体力があったですね。
石井さん:でも、乳は捨ててたからね
インタビュアーA:そうですよね。売れないですもんね。
石井さん:そう。最初分からなくて私らも診療所で飲んだりしてたけど、次からはもう捨てるからって。うち、川も沢も隣にあるからその沢に捨ててたけど、搾っては捨て搾っては捨ててたから。これでは大変だっていって、自分の体力もあったんでしょうけど、段々とそういう風にして乳を。
インタビュアーA:あまり出ないように。
石井さん:出ないようにしてたって言ってましたね。
インタビュアーA:旦那さんはずっと留まって世話してたっていう感じですか。
石井さん:そう。
インタビュアーA:何月ぐらいまで。
石井さん:6月。
インタビュアーA:6月ぐらいまで。
石井さん:うん。決まるまで、全部処分、牛が行き先決まるのと、あと殺処分っていうの決まるのが6月、何日とかって言ったんだね。6月にはもう仮設住宅に来てたからね。
インタビュアーA:それは8000ベクレル以下のって事ですよね。
石井さん:そう。
インタビュアーA:行き先が決まったのは。
石井さん:決まったのは8000ベクレル以下の。
インタビュアーA:それ以上のは殺処分。
石井さん:殺処分。
インタビュアーB:餌って、その時、ストックは1年分くらいあったんですか。
石井さん:うん。3月だったからあった。
インタビュアーB:うん。
石井さん:餌はあったね。
インタビュアーA:減らす量は半分ぐらいまでですよね。もし、減らすとしてもね。
石井さん:そう。
インタビュアーA:餌は十分にあったのかなって感じですね。本当によく頑張って自給自足されてきてる。普通はね、酪農家の方でそんなに用意できないから、1ヶ月とか購入とか。
石井さん:してたよね。
インタビュアーA:それが普通なのかなと。その時の旦那さんはどんな気持ちだったかとかありますか。推測というか。
石井さん:うちの人はとにかくこの牛でもって生活の基盤を、うちは基盤がそれだから牛様様だったのね。動物、馬とか牛が大好きなうちの主人で、動物が好きだから、もちろん、畜産農家のほうにね、高校の時からもそうやって勉強してたんだと思うんだけど。やっぱり、餌は草でも発酵したヨーグルトみたいな、人間が食べるヨーグルトみたいなもんなんだってよく言ってうちら聞かされてたんだけど、その発酵させた草ね、草がこれが一番最高の草だとか、これがちょっと出来の悪い草だとかっていう説明はされたけど、私はよく分かんなかったんだけど。そんなんでね、すごく楽しいかったのかな。自身持ってた牛に対しても、土なんかも良い土を、土壌をつくるんだっていう事で堆肥つくりはもちろんね、色々とやって使ってみてどうだったとか。作物が良い状態にさせなきゃなんないので、私が行ってから色々野菜をつくり始まって、自分が自給自足でなんでもつくってたし、うちのばあちゃんも野菜つくりは飯舘村出身だから、おばあちゃんね。
インタビュアーA:すごい。
石井さん:うん。力強かったしね。だから、全て、魚、肉の以外は自給自足やってて、牛も、例えばね、震災前、亡くなったりとか怪我して亡くなったとかっていうそういう牛の肉もみんなで分け与えて。牛肉のね、味噌漬けなんかもすっごく美味しい、これが最上級の肉、美味しいから食えみたいなね、みんなで分け合って食べたりとか。ニンニクと味噌を混ぜたものに牛肉を漬けとく、そうすっと、冷蔵庫でなくっても。
[00:10:11]
インタビュアーA:持つ。
石井さん:うん。
インタビュアーA:常温保存で。
石井さん:常温保存で、本当に放置しておいて、腐る寸前の肉が最高級の肉だっていうこともばあちゃんから聞かされて、食べさせてもらったらすっごく美味しいのよ。
インタビュアーA:そうなんですね。
石井さん:うん。味噌とニンニクだけで味付けで。牛肉は常にうちはあったしね、確保して。お客さん来るっていうと、牛肉出してきてそれ漬け込んで、2日ぐらいニンニクと味噌に漬ければ美味しくできるし。そんなんでね、とにかく冷蔵庫には牛肉が入ってたっていうね。だから、肉も牛肉は毎回取れたし、魚とだね、そういう豚肉とかはなかったけど、うちはね。
インタビュアーA:亡くなったとか怪我したとかそういう牛を保存してたって事ですか。
石井さん:そう。その肉をね、一回買ってもらって、屠殺して肉をまた戻してもらってた。そういうのは常にどこかれかは亡くなる、牛ね、亡くなった牛を牛肉っていう形でいただいたりとかはしてて。
インタビュアーA:大体何歳ぐらいまで牛っていうのは飼ってたんですか。
石井さん:何歳って。
インタビュアーA:何歳ぐらいまで、乳牛。
石井さん:どうなんだろ、何歳ぐらいだったのかな。5歳は経ってたのかな。
インタビュアーA:そうなんですね。年齢でいうと何歳ぐらいになるんですか。
石井さん:年齢。
インタビュアーA:私、乳牛があんまり詳しくなくて。
石井さん:乳牛はあれだよね、そんなには分かんないよね。
インタビュアーA:もし分かんなければ大丈夫です。
石井さん:ごめん。
インタビュアーA:いえいえ。すいません。その時、旦那さんは、特に、留まって時は薬っていうのは飲んでなかったんですか。
石井さん:飲んでなかった。
インタビュアーA:やっぱり、避難生活の時ですね。
石井さん:そう。避難したした日から仮設に入ってから、もう本当に死んだみたいになっちゃって、もうどうなってもいいやみたいな感じでなっちゃったからね、一回ね。
インタビュアーA:牛の死亡原因っていうのは、全部が安楽死処分っていう事。
石井さん:全部ではない。
インタビュアーA:出したものは出せたけど、何頭があれっていうのはあるんですか。
石井さん:それ聞くなって言われて聞けなかったの。
インタビュアーA:分かりました。それ以外では亡くなってはなかったんですか。餓死したっていう事もなかった。
石井さん:そういうのはなかった。全部手入れしてたから。
インタビュアーA:それはすごい。
石井さん:すごいよね。
インタビュアーA:餓死がいないんですね。
石井さん:うん。多分、赤宇木地区の酪農家はいなかったと思うね。餓死とかそういうのはね。浪江町のほうのね、ニシさんとかはもう鎖繋がれたままね、死んでたりとかしてたけども。
インタビュアーA:分かりました。子牛に特にもくしとかは付けないですもんね、乳牛は。
石井さん:うん。
インタビュアーA:たてご、ロープとか。
石井さん:付けない。
インタビュアーA:付けないですもんね。
石井さん:付けないね。
インタビュアーA:分かりました。牛を連れて歩いて移動っていうのはできたんですか。
石井さん:歩いて。
インタビュアーA:牛を引く事はできたんですか。
石井さん:うん。できた。それは、本牛舎から子牛牛舎に入れるのには必ず、300メーターぐらいかな、離れたところに子牛を入れとく小屋があったからそっちにはもうたてごで。
インタビュアーA:たてごですね。
石井さん:うん。でも、子牛でも力があってね、子供達にも手伝わせたんだけど、大変、移動させるのがね。子牛がある程度、メス牛が大きくなると枠に入れなきゃなんないじゃない、乳搾んなきゃなんないから、それも大変だったね。
[00:15:02]
インタビュアーA:牧場の地形っていうのは、1つとにかく大きくボンッてあるんですか。それとも飛び地で。
石井さん:大きなボンッと。
インタビュアーA:はい。
石井さん:道路があって、川があって、ここに。
インタビュアーA:もう一回お願いします。道路があって、川があって。
石井さん:大きな道路があって、町道があって。
インタビュアーA:114ですね。
石井さん:あと、堀っていうか沢水が流れてるところがあって、一番東側に堆肥場、乳牛の搾乳する牛舎、こっち脇にこっこを入れる小屋があって、今度後ろには道路の反対側に藁、そういう機械とかを入れる小屋があって。藁は全部牛舎の上にあげてて。2箇所倉庫があったから、上とね、そういう1つの敷地の中に、うちのね、宅地の中に赤宇木1番地のところを全部平らにしてそこに牛舎をつくって、堆肥場をつくって、物置小屋、機械を入れたりとかっていう全部1つの敷地でした。理想的な感じだよね。
インタビュアーA:通わなくてもいいんですもんね。
石井さん:そう。
インタビュアーA:全部この中で済んじゃうっていう。
石井さん:そう。自宅から5分ぐらいあるところに、少し離れたところにね、牛舎を建てる。あと、扇形に山とか畑とかが全部。
インタビュアーA:扇形に、山があったらこういう風に草地があるって事ですね。
石井さん:草地がある。
インタビュアーA:その草地もつくられたって事ですか。
石井さん:山を切って、山を全部掘り起こしして、牧草の種を蒔いて。一山っていうのかな、一山そういう風にして、草地として。あと、田んぼも大体1町歩ぐらいね、田んぼは全部、じいさんばあさんの時代は田んぼをつくってたけど、その後はうちのお父さんなってからは全部草地にして減反政策でね、田んぼを草地畑にして。
インタビュアーA:発電機は持ってましたか。
石井さん:持ってません。
インタビュアーA:そうですよね。
石井さん:小さい発電機ってのはね、小型の発電機は持ってたけど大きな発電機はなくって。
インタビュアーA:すごい高いですもんね。
石井さん:うん。高い。
インタビュアーA:200Vですもんね、しかも。酪農家さんの使ってる電力。
石井さん:うん。
インタビュアーA:もちろん、ソーラー発電機もないですもんね、そしたらね。
石井さん:ない。
インタビュアーA:本当、最近ですもんね、こんなの。
石井さん:最近ね。
インタビュアーA:でも、水はあったんですもんね、山からね。
石井さん:水はあったから牛は大丈夫。生き延びる事ができたし、やっぱり、人間生きるのにも水だしね。
インタビュアーA:そうですよね。牛も人間も水ですもんね、とにかくはね。
石井さん:それが、綺麗な水にうちは恵まれてたし、飲み水も、やっぱり、人間の水も牛の飲む水も良い水だったなって思って。放射能も何回か測ったんだけど水には放射能含まれてないけど、その水の下の泥土には飲めるようなあれではないよね。でもね、クレソンは置いてたところは本当に綺麗な水なんだけど、綺麗な水になるっていうね、そのクレソン植わってるところの何百メーターってあったんだけど、そこの流れてく水の下での水は綺麗な水だった。
インタビュアーA:濾過されてくみたいな。
石井さん:そう。
インタビュアーA:砂地ですもんね。
石井さん:そう。砂地。これもしてんの。
インタビュアーA:これ、南沢又、小高のハングイさん達の記録なんですよ。
石井さん:へー。
インタビュアーA:そうなんです。ハングイさん達、興さなきゃっていう事でこれをつくられたみたいで。
石井さん:そうなんだ。
インタビュアーA:もう泣けちゃって。ダメですね、これは。
石井さん:ハングイさん。
インタビュアーA:ハングイさんの柱ですね、それ。
石井さん:うわー、すごいね。
[00:20:00]
インタビュアーA:水桶とか何かそういう水を溜めておくのはあったっていう事ですよね。山からのその沢水を入れてる水タンク。
石井さん:ではなくて。
インタビュアーA:ウォーターカップですか、全部。
石井さん:ウォーターカップ。
インタビュアーA:ウォーターカップは壊れなかったんですか、地震で。
石井さん:壊れなかった。
インタビュアーA:そうなんですね。じゅあ、特に地震の被害はないんですね。
石井さん:牛舎に関してはない。
インタビュアーA:家が壊れたりとか。
石井さん:餌場ぐらい。あれ風で壊れたぐらいだから、地震で壊れたっていうのはないですね。
インタビュアーA:分かりました。頑丈だったですもんね。
石井さん:お墓は倒れたけどもね。お墓は地震で倒れたけど、お墓もね、石井家の土地に、自分家の裏の敷地に石、うち本家なのね。
インタビュアーA:名士さんですもんね。
石井さん:そう。分家と末家どうのこうの。そんなお墓です。
インタビュアーA:なるほど。分かりました。コニシさん、すいません、私が今45番まで聞いたので46番からお願いします。
インタビュアーB:はい。あの時は考えが回らないとか自分で精一杯っていうのもあったと思うんですけど、今、最低限考えるあの時活かせたなっていう事とかものとか何かありましたか。
石井さん:いや、そういうのも思い出す事すらない、今。あん時こうだったよねとか、あああだったよねとかっていっても、私のお父さんにしてみれば話したくないっていうのがあって。そういう事も後々に残さなきゃなんないからあん時どうだったとかって話聞くんだけど、もう、思い出すだけでもあの時の事がつらすぎて。だから、時々ね、話の中で、話止めた時がグッときてるんだなって思って、あと、話題を変えるんだけど。そんな今の状況ですね。まだまだね、10年経ったけどあの時のまんま。今でも、やっぱり、浪江に帰りたいって、帰れるもんだったら俺は何もなくてもいい、電気も何もなくてもいい、自分で向こうに行ってそれで落ち着きたいって言ってるね。
インタビュアーA:行政とか、政治家とか、あと、国とか、県とか、自治体とかがもう少しこうしてくれたらとか何かそういう事も特に今は。
石井さん:今はないけど、2年、3年前までは自己責任で、俺は帰還困難区域だろうが何だろうが、俺帰りてーっていう話になってね。それ以前も、亡くなった馬場町長も自己責任で、うちの人、じいちゃんもそうなんだけど、うちの人も帰してくれって言ってるんだけどって言ったのね、馬場町長にね。
インタビュアーA:そうなんですね。
石井さん:そしたら、いや、石井さん、浪江町はみんなで帰るんだからもうちょっと待ってくれっていう町長言葉だったのね。いや、町長そうではなくて、放射能高いって分かってる、でも、30年は影響ないって言ってたでしょって言ったのね、そしたら、いや、浪江はみんなで帰るんだからって、その町長をね、自分がね、ああいう病気になって弱気にもなってたと思うんだけど、自分は本当に町長としてみんなを浪江帰したい、みんなで一緒に帰りたいっていう思いはたくさんあって、そういう思いがね、私らにも伝わってきたし、うちのじいちゃんも、いや、俺はもう、仮設ではなくなるって自分でも分かってたから、仮設住宅ではなくて畳の上で、あの赤宇木の畳の上で、俺、だったらいいなって言われてたから、その事もね、町長にも、ずいぶん前だったんだけど、話ししたのね。そしたら、やっぱり、もうちょっと待ってくれ、もうちょっと待ってくれっていう事でね。つらかったですね、本当に。じいちゃんも見送ったんですけど、じいちゃんも大変だったし、お父さんも、今ね、10年経つけど、やっぱり、放射能があっても俺はもう帰りてーって、帰ってもいいって、自己責任で帰ってもいいって言うんだったら、俺、いつでも今でも帰るって。
[00:25:20]
石井さん:帰って手入れしたいって、先祖からもらった土地をね、少しずつ手入れしたいんだって、今動けるうちにやりたいって言って。だからね、あんまり、自分、あの時の気持ちって聞くのもこっちもね、聞くに聞けない。つらいね、やっぱりね。
インタビュアーA:コニシさん、今47を聞いていただいたと思うんですけど、避難先があって、8000ベクレル以下のものに関しては旦那さんのほうで都合を付けたんですか。それとも、国のほうで移動してくれたんですか。
石井さん:県酪農農業協同。
インタビュアーA:酪連で。
石井さん:うん。県酪連で全部手配してくれたの。
インタビュアーA:家畜車とかも向こうで手配して。トラック。
石井さん:うん。受け入れてくれる、嫁に出す相手があればもうそこに。
インタビュアーA:嫁に出すって言うんですもんね。
石井さん:嫁に出すんですよ。
インタビュアーA:ですよね。それがいたっていう事ですね、そういう農家さんが。
石井さん:そうそう。
インタビュアーA:県外ですか。県内。
石井さん:本宮とか二本松って言ってたからそういうとこで受け入れしてくれたんだと思う。
インタビュアーA:そういうとこあってよかったですね。前頭とかじゃなくて何頭かでも。
石井さん:何頭でもね。
インタビュアーA:電気柵とかはつくった事はないですよね。
石井さん:電牧柵。
インタビュアーA:うん。放牧はされてなかったんですもんね。
石井さん:やってない。
インタビュアーA:分かりました。助け合える仲間もいらっしゃったっていう事で。
石井さん:ええ。
インタビュアーA:56番、じゃあ、聞いてください。
インタビュアーB:助け合える仲間、結とかでしたよね、さっきおっしゃってましたよね。4人組か5人組とかでそのトラクターとかも。
石井さん:そう。ロールベーラー持ってたりとかね、そういうのはみんな仲間内でやって。順番で、3回とにかく草を収穫する訳だから、一番草は一番良いのね、一番、二番、三番って。
インタビュアーA:栄養価がね、下がってきますよね。
石井さん:それで順番で回り番で、全部機械を持ち寄ってみんなそれぞれの家庭を。だから、装置も、危険な装置だってあるよね、この危ないところとかね、そういうのを全部みんな分かってて、そこでそういう風にしてみんなで協同で結をしてたっていうね。
インタビュアーB:さっき、活かすために必要だった事とかものとかはなかなか言いづらいとは思うんですけど、他の災害地の農家さんに伝えたい感情っていうか、思いっていうか、そういうところだったら。
[00:30:17]
インタビュアーA:福島から、他の、多分、今後も災害があちこちであると思うんですけど。
石井さん:餌。動物の餌だけは、1年分って言ったけど1年以上分を確保しておくって事と、あと、常にね、牛は塩もなきゃ生きていけないんで、塩の。
インタビュアーA:塩ですよね。大事ですよね。
石井さん:そう。水と塩と餌は、やはり、多めに置かなきゃなんない。もしね、余ってもあれだっていう時には他に回せばいい訳であって、常に収穫できるものであれば他に出しちゃうんじゃなくって自分で加工しておくっていう、余分に確保しておかなきゃなんないっていうのがあって、まず、餌なんだよね。あと、今って缶詰だったりとか全て保存の機能が良くなってきてるからそういったものでね、人間も、自分も、個人もね、そういった保管のできる食料をきちっと備えておく。買ってくるのではなくて自分がそれだけの保存食をきちっと、万が一の場合ね、水が出なくなったらとか、あと、お店にトイレットペーパーがなくなるとか何がなくなるとかって、そっちあるよね、でも、そういうのも、基本的なものは動物の餌も必要だけど人間の餌も必要だったり。
インタビュアーA:そうですよね。本当にね。
石井さん:常に今食べてるものがなくなったらどうしようって、常に入れ替えしていくっていうのが一番大事な事かなって思ってる。
インタビュアーA:そうですよね。入れ替えしておけば別に何も問題ないですもんね。
石井さん:ないからね。だからね、缶詰だろうが何だろうが、瓶詰めって私も今加工してるだけど、色々瓶詰めでドレッシングも1年の賞味期限で付けてるけど、本当に2年も3年も。
インタビュアーA:持ちますもんね。
石井さん:持つんですよ。だから、そういうものであれば。あと、野菜はね、自由に自分、その季節季節の野菜を食べる事ができるけど、そういったものも、今は私もドレッシングとかね、えごまのソルトだったりとか、えごまの振りかけだったりとかって研究してるんですけど、そういったもので生き延びる事ができるのかなって。
インタビュアーA:そうですね。
石井さん:うん。
インタビュアーA:自給自足してたらそれだけでも、畑が冷蔵庫っていうか。
石井さん:でしょ。そうなんですよ。あと、野草でもね、食べれるものがたくさんあるよね、だから、そういうのはきちっと食べれるのか食べれないのかっていう事をね、それなりに種を繋いでいったほうがいいのかなって。ちょっと脱線するかもしれないけど、この今石の上の建ってるこの家ね、うち、前は中二階で古い家あったんですよ。前の地主さんが、もう、周りが震災が起きても、台風が起きても、火事になっても俺だけは大丈夫だって、地下牢があったんです、ここに。地下室があって、みんな周り人達が、全部がダメになっても俺だけは生き延びる、子供も生きる。この前の畑には大豆をつくってて、大豆でもって俺は生き延びる事ができる、って言ってた人が色々病気で、やっぱり、勝てなくて亡くなったんですけど、亡くなったから私が、うちの主人が買い求めたんですけど。その人は刑務所の刑務官で働いてた人で、そういう人だったのね。
インタビュアーA:だから、そういう意識があったんですね。
石井さん:そう。その人も自給自足だし、大豆を食べてれば長生きできるみたいな感じだったんだね。だから、この石井農園の敷地もそういう、今はね、それ埋めっちゃったんだけど、地下室は埋めたんだけど、自分は物書きだったんですよ、その人から受け継いだ土地をね、買わせてもらって今やってるんだけど。やっぱり、そういう食料っていうのは本当に確保しておくべきだなって思う。
[00:35:22]
インタビュアーB:そうですよね。
石井さん:はい。
インタビュアーB:孫世代、お孫さんとかいらっしゃると思うんですけど、そのお孫さん世代に伝えたい事ってありますか。
石井さん:私の後ろ姿を見てるんですよ。
インタビュアーB:うん。
石井さん:うち、孫が今高校3年、高校2年で、今年の春からは1番上のお姉ちゃんはもう仙台の専門学校に行くんですけど、その子も、私、今、浪江のおやつかぼちゃ饅頭って事でデビューさせました。
インタビュアーA:これですね。ちょうどここに。さっきから気になってたんですよ。これ、あぶくま地域、浪江町の郷土料理かぼちゃ饅頭です。
インタビュアーB:美味しそう。
インタビュアーA:生地にも餡にもかぼちゃを練り込んでいます。甘すぎず優しい風味。すごいですね、これ。
石井さん:そう。
インタビュアーA:あと、すいません、ギョコバカっていう変なのも見えちゃった。
インタビュアーC:漁船ですよね。
インタビュアーA:いっぱいある。
石井さん:このかぼちゃ饅頭も冷凍にしてあって、今日、今の電話200個送ったってのは冷凍のかぼちゃ饅頭。
インタビュアーA:そういう。
石井さん:郡山に送ったのね。そういうのももう冷凍で受給させてます。
石井さん:後でレンジでチンして食べさせてね。
石井さん:そんなんで、保存食っていうのが中心に今やってて、みなさんが、例えば、今回の震災で大変だっていう時とかもそういうので配る事ができたりとか、今日はじゅうねん餅を200袋、3個入に200袋をつくって、今日、さっきの宅急便で出したんですね。
インタビュアーA:そうなんですね。すごいですね。
石井さん:それも2日間でやったんですけど、もう、自分でもすごいなと思って。それも子供達に、片親しかいないシングルマザーの子供達にそういうのも郡山に送ったんですよ。餅とかもね、凍み餅とかもそうなんだけど、そういう風に保存食できるようなもんとかね。あと、このかぼちゃ饅頭も一回つくったら3日っていう消費期限が3日だから悪くなっちゃう、だから、もうつくりおき、一回で200はつくるんですけど、熱いうちに冷凍庫に急冷するんです、それをその急冷したまま冷凍庫に入れておいてまとめて今日は郡山に冷凍便で送ったっていうそういうやり方をしてて。全てそうやって自分達がつくったものを添加物なるべく入れないようにして、それでジャムもドレッシングもっていう事でね、今やってるんだけど。
インタビュアーA:すごいですね。
石井さん:何かの役に立てればって思って常に確保して、色々ね。
インタビュアーA:そうするの見てるんですもんね、お孫さん達ね。
石井さん:孫達が見てて、私がかぼちゃ饅頭をつくってたから、やっぱり、相双地方って九十九里かぼちゃなんですよ、一部、いいたて雪っ娘もあるけど、うちらは相双地方でみんなで九十九里かぼちゃをつくって、売り上げを1億円目指そうって事で頑張って旗揚げしたのが九十九里かぼちゃで、それで、饅頭を中も外もかぼちゃを饅頭をつくってて、それを見てた孫が、テレビにも出させていただいたんだけど、ぶらカメってそこに。
インタビュアーA:ぶらカメ。
石井さん:ぶらカメ。
インタビュアーA:こっちですね、ぶらカメ。
石井さん:それがね。
インタビュアーA:お孫さん。
石井さん:それ孫。
インタビュアーA:あらま、可愛らしい。これですね、お孫さん。
[00:40:00]
石井さん:本宮高校の、今、今度3年生に、高校3年になるんですけど、その子もかぼちゃ饅頭をつくるほうなんです、その2番目の孫が。ここに来て、好きずきけつくって、アンコ丸めたりとかそういうのとか。
インタビュアーA:じゃあ、もう、お孫さんめちゃめちゃ伝わってますね。大事な事っていうのは。
石井さん:と思うけどね。私の後ろ姿を見てるっていうのが、やっぱり、孫2人。そしたら、石井農園跡継ぎ、後継者なってねって言うと、いや、ばあちゃんだって60過ぎてからやったんだから私だって世の中を見てきてからやるからねなんて言われて。
インタビュアーA:賢いな。答え方が面白い。
石井さん:そんな事言われてます、今。でも、時々来ると、かぼちゃ饅頭つくるんだったら私手伝うよとか、売り方を、コラッセとか浪江の道の駅で売り方やったりする時に手伝うよとかっていって、高校2年生の今二本松にいるんですけど、その子が手伝いに来てくれたりとかして。とにかく、巻き込むっていうのかな、休みの日はちょっと手伝いにおいでって、アルバイト代1日3000円だけどいいつって言うと、行く行くつってね。バイト代3000円なんですよ、1日。
インタビュアーA:社会勉強ですよね、これもね。
石井さん:うん。
インタビュアーA:ありがとうございます。
石井さん:はい。
インタビュアーA:応項目にあるから確認なんですけど、旦那さんはもう牛は飼われないですよね。
石井さん:牛飼われない。飼えない。
インタビュアーA:飼えないですよね。つらくて。
石井さん:つらくて。
インタビュアーA:はい。分かりました。ありがとうございます。じゃあ、未来へのメッセージをお願いします。
石井さん:これから、やはり、自給自足。全てにおいて自給自足で、自給自足できないわ、土地がないわっていう人達にはプランターでね、プランター栽培をちょっと玄関でね、玄関でもできると思うのね。だから、そういう風に自分が食べるものは自分で研究して勉強して自分で自給自足できるようなね、そして、あと、仲間をね、農家さんを仲間に持ちなさいっていう事を言いたい。
インタビュアーB:そうですよね。私も親戚が農家さんいるので毎回仕送りしてもらって、自分でスーパー行く事ほぼないんで。
石井さん:そういう事なんだよね。だから、実家が農家だっていう人は本当に素晴らしい事だなと思う。だから、私と親戚になってちょうだいな。私はね、山ウドだったりとか、ウルイだったりとか、あと行者ニンニクとかも栽培してるのね。それを、行者ニンニクも醤油漬けにしといて、それで、もう1年中体力を付けるっていう。
インタビュアーB:美味しそう。
石井さん:だから、全てね、自分は食べたいものは自分がつくるっていうのが基本的なのね。山にある自然のものって素晴らしい、人間の体には必要なものであってそれを上手くね、雑草と思わないでそれを手入れしてでちゃんと良いものに。ゴミとかホコリとかあわないように無農薬でなるべくね、食べたものとかの残飯を私は堆肥にして小糠とかEM菌とか混ぜて堆肥をつくるんだけど、今でもね、そういうもので、やはり、自分が健康になるっていうのは土を健康に保たなければならないっていう事も、色々そういって、ちょっとした庭があれば、プランターがあればできると思う。だから、農家と親戚になって自分でも作付をして食べるっていうのが一番ね、と思う。
インタビュアーA:ありがとうございました。
石井さん:とりとめない話だったけど。
インタビュアーA:いや、すごい面白い。
[00:45:00]
インタビュアーA:本当、そうだと思いますよ。コロナの時に再認識したと思います。都会の人達も食料を自分達はもらわないと生きていけないんだって。海外から輸入してるのもそのうちこなくなるんで、人口爆発してるんでもう無理なんで、世界もいっぱいいっぱいだから。どうすんのってなったら、やっぱり、日本の地方の土地をもっと。
石井さん:そうね。
インタビュアーA:自給自足最高ですよね。
石井さん:自給自足だよね、これからね。
インタビュアーA:コロナで農家の人ってあんまり出荷の部分に関しては大変だったかもしれないですけど、自分が食う分には困ってないですよね。
石井さん:生き残れるのは農家だなって思うんです。
インタビュアーA:そうね。
石井さん:だから、農家にお嫁さんに行きなね。
インタビュアーA:確かに。お婿さんもアリだと思うんです。農家さんの家にお婿さんに行く。
石井さん:そういうの一番。
インタビュアーC:僕がですか。お婿さん。
石井さん:農家にお婿さん。
インタビュアーA:そう。アベさんも可能性あります。ありがとうございます。2人から何か質問とかあったらしてください。感想でもいいし。
インタビュアーC:いくつか質問をいいですか。
石井さん:はい。
インタビュアーC:答えられる範囲でいいんですけど、牛の乳が出なくなった後の乳牛っていうのはどうしてましたか。
石井さん:後はもう良いところに嫁に行けよだし、あとはお疲れさんっていう、本当に感謝を込めてのご苦労さんみたいな、我ら家族を助けてくれてありがとうっていうような言葉をかけたらしいです。本当に牛には感謝してるし、乳を出してくれたから、乳を生産してって今までずっと30何年間食べさせてもらってたし、あと、それによって、牛によって色んな教わった事もあるし自然に向かっての厳しさも牛に教えられたっていう事もあって。うちのお父さんって人間と喋るより牛と喋ってたほうが分かり合うって言うようなね、そういう堅物人間っていうか普通ではない親分肌のそんな人だったから、あんまり人と話するのが苦手だったし、自分がこうでああでっていう自分の本性を表さない人だからじっと我慢して、今でもテントに鬱みたいな感じになっちゃってはいるけど、自分で、あそこでもう俺は命は尽きたみたいな感じで言われて。本当に牛と共にしてきたっていうのが人間とお付き合いするよりも牛と付き合ってたんだなって、心底ね。それでね、うちは男の子3人いるんだけど、本当に素直に育ってくれて、子供も孫も今9人いるんですけど本当に仲がいいっていうかね、声掛ければみな集まってくれるし、牛もそうだけど人間のね、人間の生き方もそこで教わったなって思って。俺いつ死んでもいいよみたいな事を時々言われるんだけど、本当に満足してたんだなって、私がこれから浪江の人達に恩返しをね、福島の人と浪江の人達に恩返しをしてくっていう意味でも、やっぱり、石井農園を立ち上げたっていう事がうちのお父さんにとってはもう満足っていうかね、みんなそれぞれに独り歩きしてくれてるし自分もいつどうなってもいいやみたいな感じでね。牛がいたからここまでこれたし、牛がいたからあれだけ頑張れたし、ごはん大盛2膳食べるってのが私もビックリしてて、ごはんも美味しかったんだと思うのね、浪江にいた時のものは。
[00:50:26]
インタビュアーA:朝ですもんね。朝2膳。
石井さん:朝は必ず2膳。
インタビュアーA:大盛りの。
石井さん:大盛りの2膳。考えられないよね。でも、本当に楽しかったみたいで。だから、自分もすごく、牛が殺処分されたとか牛を放さなかなんなかったっていうのも、やっぱり、自分がそれでも、自分の役目っていうのが果たされたっていう事ですね。
インタビュアーA:根っからの牛飼い。
石井さん:うん。牛が好きで。うちのお父さんの母がばあちゃんなんだけど、義理の母だけど、そのばあさんが牛も好きだし牛も馬もすごく動物が好きだったていうのが母親なのよ。だから、それを息子が引き継いでるっていうのがね。
インタビュアーA:楽しかったんでしょうね。旦那さん、あそこの暮らし。
石井さん:楽しかったんだね。
インタビュアーA:ずっと牛と向き合って、100%毎日向き合って。
石井さん:そう。
インタビュアーA:1日も休まずですもんね。
石井さん:休まず。
インタビュアーA:30何年間も。
石井さん:ヘルパーさんは来てくれたんだけど、ヘルパーさんの脇にちゃんといて。
インタビュアーA:休んでないじゃんって。
石井さん:休みはあるのになんで連れてってくれないのみたいな、うちの孫、子供達は言ってたけど。でも、本当にそれがね、幸せの酪農家の。牛の状態って自分が手掛けないと変わるっていうのもあってね。
インタビュアーA:そうですよね。手掛けたらなりますもんね、状態が良く。
石井さん:そう。だから、そんな事もあって、ヘルパーさんが来たとしてもうちの人はもう脇にいて。そんな感じだね。
インタビュアーA:はい。
石井さん:相双地方に来てください、今度。
インタビュアーC:現地に行けたら行きたいですね。
石井さん:役場職員に是非なって。双葉でもいいし、浪江でもいいし。うちでは大歓迎。
インタビュアーA:ありがとうございました。
石井さん:はい。
インタビュアーA:あとは大丈夫ですか、コニシさん。
インタビュアーB:減反政策されてたっておっしゃってましたけど、石井農園とかを立ち上げる前は農作物とかどういったのつくってたりとかしてたんですか。
石井さん:減反政策は浪江にいる時で、田んぼを水田でなくって草地にしてたっていうのが減反政策だったんですね。今も、私、そういった補助金は浪江ではもらってるんですけど、それを、今、水田ではなくって、水田つくれないってのは良い水が引っ張れないから転作でえごまをつくってる、えごまをつくってるから反なんぼっていう国の補助金をいただいてるっていうのが今の現状のこの減反政策なんですよ。あと5年はかかるんですよ、水田に浪江の田んぼをつくるのに。今、試験栽培とか、解除されたところは水田をつくってますけど、私がえごまをつくってる水田も、3町歩ぐらいあるんですけど、そこはまだまだ水田として作付できないので、あと最低でも2年はえごまをつくるから貸してねってその地主さんにお願いしてて。今、反5000円払って、えごまを今年もまた植えます。
インタビュアーB:ああ。
石井さん:はい。
インタビュアーB:ありがとうございます。
石井さん:私は6町歩やるんだけど、そのえごまの会も4町歩だから10町歩。
インタビュアーA:すごいですよね、えごまで10町歩って。
石井さん:えごまで10町歩。
インタビュアーC:10町歩ってどんぐらいですか。ヘクタール的な。
インタビュアーA:ヘクタールです。
インタビュアーC:10ヘクタール。
石井さん:10ヘクタール。
インタビュアーA:散々見てきたヘクタールです。
インタビュアーC:馴染みがあります。ヘクタールだと。
インタビュアーA:すごい広いですよね。
石井さん:すごい広いです。はい。
インタビュアーB:ありがとうございます。
インタビュアーA:あら、美味しい。すっごい、老廃物が外に出て生き返りそうな味します。
[00:55:03]
石井さん:すごいでしょ。
インタビュアーA:ビタミンの味ですか、これ。すごい美味しい。
石井さん:酸味もあって。
インタビュアーA:そうそう。何だろこれ
石井さん:ブルーベリーよりもアントシアニンが7倍含まれてるっていうのがこのナツハゼ。
インタビュアーA:目悪いからどんどん効いてほしいです、これ。
石井さん:メガネ外してほしいわね。
インタビュアーA:重いんで。
石井さん:だよね。ナツハゼのお茶って、お茶でなくても何でもいいんだけど、メガネを外す事できるぐらい。
インタビュアーA:私もつくろうかなナツハゼ。
石井さん:是非。私ね、今までみんなに苗木あげてて。
インタビュアーA:そうなんですか。
石井さん:うん。浪江にも今増やしつつある。
インタビュアーA:震災前に5個ずつ植えられたっていうのはまだ育ってるんですか。
石井さん:どうだろう。
インタビュアーA:水やりとかしてなかったからダメなんですか。
石井さん:いや、多分、大丈夫だとは思う。でも、野生化しちゃってるからそんなに成らないと思うけど、私が行けば分かるし、自分でももう100本ぐらい浪江に植えて、ここにも20本ぐらい植わってるんだけど。
インタビュアーA:規模が違いますね。
石井さん:そう。
インタビュアーA:それは今何粒ぐらう付くんですか。
石井さん:今では、私の友達も浪江で植えてるんだけど、1キロ半取れつって、1キロ500取れたつって。
インタビュアーA:すごい。じゃあ、野生化しても20粒戻った訳じゃないんですか。
石井さん:なくて。そこは草刈りをして草を刈ってそこに周りに草マルチをしておくところが1キロ500。だから、本格的に栽培してねって私が苗木ここに今までポットに入れてたんだけど、それをあげたんだけど、それが、今度、2年、3年ってはかかるんだけど、それがどうなるかはちょっとね。
インタビュアーA:楽しみですね。
石井さん:うん。ナツハゼをもしやるんであれば、なかなか挿し木とかも難しいのね、だから、もう苗木屋さんがあるのよ、いつも毎年春に苗木を売ってくれるところがあるのね、山から掘り出してそれを苗木として3000円とかなんだけど売ってるくれてるところがあったりとかして。
インタビュアーA:分かりました。美味しい。
石井さん:美味しいよね。
インタビュアーA:美味しくて体に良いって最高ですよね。
石井さん:体に良いし、これが血液の流れも良くしてくれんのかななんて思うぐらい。
インタビュアーA:そういう系の味がします。
石井さん:あと9%しかないけど。
インタビュアーA:分かりました。ありがとうございました、貴重な時間。
インタビュアーB:ありがとうございました。
インタビュアーC:ありがとうございました。
インタビュアーA:現地に来れないから、初めてなんですよ、生でのインタビューって。
石井さん:ああそう。
インタビュアーA:今までは私が撮影したのを見て文字起こししてくれてたんですけど。
石井さん:そうだったの。
インタビュアーA:だから、会話ができる初めての。地域の方達と喋る。ちょっと緊張しましたよね。
インタビュアーC:緊張しました。
石井さん:あのね、さっきちょっと見せようと思ったんだけど、これ、紙芝居で見たって言ったよね。
インタビュアーA:見ました2人とも。
石井さん:今度、これがアニメーション化されたんですよ。
インタビュアーA:本当ですか。
石井さん:私らが実際喋ってるんだけど。4人で喋ったんだけど、これちょっと。
インタビュアーA:アニメーション。
石井さん:アニメに、これね、ダイチヤスオさんって分かる。
インタビュアーA:顔見た事ありますけど。
石井さん:ダイチヤスオさんが。
インタビュアーA:浪江町乳牛物語のアニメバージョン。
石井さん:うん。これをね、1冊あげるから後で見てちょうだい。
インタビュアーA:はい。ありがとうございます。
石井さん:それで、こういう風にアニメーションにして各学校のほうに寄贈したりとか、買っていただいたりとかして、それで、震災の助けられなかった無念だったりとか、あと命のおにぎり、飯舘村のね、人達が福島でね、おにぎりをこう、やるっていう、そういうのとかも全部アニメーションにして。オカさんは、母と子の、施設で働いてた娘を守りきったっていうかね、家族の愛で支えたよっていう事もアニメーションにしたりとかね。そういう運動をして、私達がこのコロナで動けない分アニメーションで見てもらおうっていう事でそういう風に、イクマサさんっていう広島の、イクマサ鉄平ね、そういう風にしてくれて、現実とは異なる部分もたくさんあるけど、見てもらおうっていう事でね、現状をそれなりにね。私も紙芝居読む度に今まですごくつらくて、実際ね、喋っててもあの時の事がグッときちゃんだけど。
[01:00:07]
インタビュアーA:伝えていく事って本当大事ですよね。
石井さん:うん。
インタビュアーA:こういう風にこちらでも未来へのメッセージって出していただいてて、他の災害が起こるだろうところの人達が学べる事っていっぱいあるなって思います。学ばなかったらあの犠牲は無駄になってしまうので。
石井さん:そうだよね。
インタビュアーA:学んで何かできる事はちょっとでも、自給自足プランターでも。
石井さん:そうだね。やればいいし。あと、自分だけが避難するっていう事は本当に動物に対してね、申し訳ないなっていう思いもあるし、そこでどうするかっていったら、やっぱり、今回のようにね、爆発したから、水素爆発したから避難しなきゃなんないってのは上からのね、命令的なものもあったから今回そうなったけど、そうではなくて今回の地震とかでね、例えば、ものすごい揺れがもっと震度をね、震度8とか9とかなったらもうすごい、いれないってなった時に自分はどこにどういう風な行動をすればいいのかとか、周りとのそういう連携がね、一番必要だなって思い知らされて。今回の地震も、私、実は浪江だったんだけど、浪江の憩いの村、避難した訳じゃない、避難所なったから、避難した訳じゃないんだけど、そこに宿泊してたんだけど、やっぱり、仲間が4人で宿泊同じ部屋にいたから心強かったけど、1人だったら夜中11時の寝静まろうとしてた時のだったからそういう時に色んな事が思い出されてきて、これがどうなったとしてももう自分はね、自分の命は自分で守るしかないって思ったのと、あと、食料ね、食料はある程度カンパンでも何でもね、軽いものでもね、車に付けてとけばそれで少しはしのげる、水も、やっぱり、そうなんだけどもねって思った、今回ね。
インタビュアーA:本当にビックリしましたよね。10年目でバーッて。
石井さん:きたからね。でも、普通だったら、今までも地震が、地震大国なんだし大した事ないべって思われたとしてても、気持ち的にすごい怖いよね。牛達は、やっぱり、それなりに怖がってたんだろうなって思うとね。
インタビュアーA:そう思います。
石井さん:だから、私らは紙芝居で伝えていくっていうね、それと、あと、聞かれれば、今のトイレとかそういう簡易のね、どうすれば、どんなあれがいいですかとかっていう色んなお話が、今、色んなところから、富山県とかね、兵庫県だったりとかのほうからも色々聞かれるんだけど、やっぱり、簡易的なものがほしいし、トイレだ何だかにだつったらすっごい荷物になるよね。
インタビュアーA:そうですね。
石井さん:だから、今回、浪江の避難所もテント、よくテレビとかに出るけど、上のないテントね、テント1つで周りとのあれが、同じ部屋にいてもテント1つあれば十分プライベートは守れるし、今回は浪江町もたまたま私も避難所にいたから分かったんだけど、それがすぐパパッとできたんですよ。私がいた憩いの村宿泊施設が避難所なった時に、そのテントでパッともうみんなね、電気とか、その頃、帰ろうとして電気が停電しちゃってるからもうドアがロックされちゃったっていうところもあって、そういう人達もすぐに避難所っていうのが連絡取り合って、すぐ避難所に、憩いの村に来て食料を分け与えてもらってそのテントに宿泊したっていうのもね。
[01:05:05]
石井さん:そういうのが一番のね、他の自治体でも色々とね、そういう準備っていうのが必要だなって思うのね。だから、それに自分がテレビで仕入れたとかね、分かってるものであればそういう風にしたほうが一番ね。明日は我が身だからね。
インタビュアーA:今回のインターン生達もいかに自分事として考えてもらうかを念頭に置いてこの福島の経験、福島のすさまじい今までにない被害について、やっぱり、名前の声をお聞きしてインタビューで形に残させていただいて、他の地域、もしかしたらこの地域の今以降の世代になるかもしれないですけど、どこで何が起きるか分かんないから、本当に伝えていく事ってめちゃめちゃ大事だなっていうのは。
石井さん:そうだね。100人が100人とも色んな感情、考えがあって、こうしたらいいんじゃないの、ああしたらいいんじゃないのって、俺達はこうだったよとかっていうそういうもののね、物事の感情がみんなそれぞれ違うっていう事もね、人それぞれに思う事もみんなね、様々だったなって今回は。今、震災があった時に私は診療所に、たまたま、私いたじゃない。そしたら、避難して大きな病院に行ってレントゲン撮ってくださいって言われて保険証を出すと、放射能きたって言われた、その一言で、なくなくなんでくんだよね。そういう事もあったりとかして、今でも私もそういう風に言葉でね、あんたらいいよね、原発でお金もらえるからいいよねみたいな事もね、だから、この裕福な生活できるよねみたいに福島の町の中に来て言われる時もたまにあるのね、だから。
インタビュアーA:未だにあるんですか。
石井さん:今でもあるの。やっぱり、住民票が、あんた浪江町じゃない。10年過ぎたらそろそろもうそうかって思ってっけど、でも、私らは浪江に帰るっていう風に心に決めてるから浪江町の住所であって、いつかは帰れるだろう、でも、そうなったとしても二地域居住だよねって。行ったり来たりの生活するしかないよねって。ここも第2の、第3、第4のふるさとだよねっていう風に今なってるし、そういう風に放射能きたとかばい菌とかそういう言葉が子供達にとっても、やっぱり、うちの孫も新潟に避難した時にそういう感じでね、小さい学校から大きな学校に行った時に登校拒否も起こしちゃって、大変な時期もあったのね。だから、みんなで分け与える、美味しいものが、例えば、送れられてきたら、じゃあ、隣にね、送られて食べきれないからね、おすそ分けねっていう風なそういうお付き合いが今までがそうだったからこれからもしてかなきゃなんないなって思ってるんだけど、今、私、福島の笹谷っていうところにいるんだけど、そうではないんだよね。みんな、回覧板もチャイム鳴らしてどうぞってやりたいんだけど、私は、そうではないの。もうポストに入れてっていう感じだから。え、何この地域は、顔合わせる事すら、道路に行ってすれ違ってもおはようとかこんにちはではなくて、頭を会釈するだけなんだよね。それでは人間の会話がないしとてもやっていけないっていうのがうちのお父さんの今のね。
インタビュアーA:昔がすごく濃密というか1つの大きな家族のような感じの。
石井さん:だったからね。でも、これもしょうがないんだなって思ってね。日中暑い時、仕事できない時に朝早く私ら仕事するじゃない、そうすっと、大きな音、エンジンの音させると。
インタビュアーA:草刈り機ですか。
石井さん:そうすっと、何やってんだって怒られんのね。
インタビュアーA:ここで。
石井さん:いや、笹谷の町の中で。
インタビュアーA:笹谷で。
石井さん:うん。ここでは周りが遠いからこっちのほうは快適なんだけど。笹谷の町の中にいて、そういう風に古い木をね、切ってもらったりとかする時に大きな音したり、させたりした時あったのね、そん時、もう隣から怒鳴り込まれてとかってなんかね、そんな事も許せないのかよって、何時に寝てんのよ、4時、5時には起きんの当たり前だべみたいにね、思ってんだけどそんな事も言えないし。
[01:10:22]
石井さん:だから、隣近所とのお付き合いも、役員はやってるけど、お付き合いが今までは全然違うし馴染めない、10年経っても馴染めないっていうのがね。国のほうからお金をいただいてるっていうのも肩身が狭い思いしてるし、やる気のある人にお金を出してくれるんなら、貸したりとかしてくれるんだったらいいけど、じいちゃんでも、ばあちゃんでも、赤ん坊でも1人1万円っていう金額を付けられちゃったっていうのが一番のね、私的にはもうお金ではないよって、再建するためにやろうとしてる人達にそういうお金を貸し付けるっていうかね、無利子貸すとかそういう風のにしてくれればよかったのになって思うんだけど。本当にお金で私らは動かされてしまって、一番つらい思いしたね。
インタビュアーA:頑張ってらっしゃる方とか頑張る方に付くっていうのは誰もが納得する形。
石井さん:そうだよね。
インタビュアーA:だとは思うんですけど。
石井さん:やる気のある人達にね、サツキさんみたいに帰還困難区域で何かやろうっていった時にそういう何々が必要なんだかっていう事をね、きちっと把握してそういうとこにお金を出してくれるんならいいけど、1頭いくらって決められて、働く人も、働かない人も、年寄でも、赤ん坊でもっていうのがね、今回は私は国に対して許せないなって思ってて。でも、これだって、それで生き上がったっていう人もいるしなんとも言えないのかなって思うね。
インタビュアーA:色んな立場の色んな考えがあるからなかなか難しいですよね。
石井さん:難しいね。
インタビュアーA:でも、応援したくなるのは、やっぱり、石井さんみたいに困難の中で立ち上がって、更にシングルマザーとかに配ったりとか人にまでね、そうやって。
石井さん:そうね。だから、相手から声かけられるんだったら私らはそういうのに対していくらでも、300円するものを120円とか180円とかって安くして、人件費とかもかかってるからそういうなりの最低の経費はね、でやってもらうっていうのが一番の今やれる範囲かな。だから、浪江にも今年は10町歩のえごまを作付するけど、果たしてね、それが良いくなるか悪くなるかも天気次第でね、農業って。
インタビュアーA:農業ですもんね。
石井さん:でも、やる事によって土が肥沃なね、良い土になればいいなって思ってるんであって。そんな儲けようとか稼ごうっていうあれじゃなくて、やっぱり、土の循環型農業なのね、そういう基本的なものだなって思うのね。
インタビュアーA:本当に未来のためにやってますよね。
石井さん:うん。だから、そういう仲間も増やしたいし、そういうね、やる気のある人には私だって応援したくなるし。本当に、70過ぎれば80なんだなって、昔の80つったら本当にね。今69で70になるじゃない。うちのお父さんだって73だし、もう80ってなったらこれからね、先、終活してかなきゃなんないし、もう、色々考えてね。だから、できる事をね、少しずつやっていくっていうのがね。今のうちのお父さんと、確かに、薬漬けで今日も診療所に検診に行ってんだけど、本当にできる事をね。あと、食べるものはなるべく私が作付、畑で作付したものとかそういうものをなるべく、玄米食だったりとかして、なるべくね、自分達で健康を保てられるものであればいいんだけど、なかなかね、それもうちのお父さんは、もう、体が病気っていうかダメになっちゃって、食べたくないとか、いや、俺はきんめしが食いてーんだよなって言われて。
[01:15:30]
インタビュアーA:きんめしは。
石井さん:きんめしって白いごはん。
インタビュアーA:でも、玄米のほうが栄養は全然ありますもんね。
石井さん:うん。私は玄米を食べさせたいんです、少しずつでも。あと、この前もあれ入れたりとか、黒豆を入れたりとかって、私的には食べさせたいなと思うんだけど、いや、食いたくねんだよな、白いごはんが食いてーんだ、きんめし食いてーって言われちゃう。
インタビュアーA:そうですね。大変ですね、奥さんは。
石井さん:そうそう。本当に大変。
インタビュアーA:体の事考えてこれなんだけどっていうのあるけど。本人が食わないって言ったらね、食べれないし。
石井さん:いらねって言われればね。
インタビュアーA:難しいですね。
石井さん:そう。難しい。色々ね、考えてつくったりね、食べさせようとしてるんだけど。そんな事です。
インタビュアーA:どうもありがとうございました。
石井さん:ありがとうございました。
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