坂本勝利さん(富岡町・帰還困難区域)82歳

被災農家の声(インタビュー)

①種:和牛 

②頭数:震災時には26頭飼育 

③電気:無し(発電機を借りた) 

④水道:無し(ポンプはあったが電気式。川があった。) 

⑤エサ:自給自足してた。ストックがあった。餌米30kgの袋が80個あったが盗まれた 

⑥当時のエサやり(通った)頻度:1週間に2回通った 

⑦震災当時の状況把握:滞在先のホテルのテレビで車が津波に流されている映像を観て、地震と津波があったことを知った 

⑧原発からの距離:原発から13km付近  

⑨放牧:農地は8ha(そのうち4haが放牧に使用可能)。電気柵の使用経験若干あり。放牧経験あり。 

⑩金言:(インタビュアーの「経済的に価値のない牛なのに、どうしてこんなに苦労して餌をやったんですか?」に対する言葉)「牛に対する愛情だべな。それに尽きるね。」

牛は広い環境で育てるのが大事。」「飼料と水が絶対。」「日陰を設けよう。」  

⑪2019年に生き残っていた16頭全頭を安楽死処分した。

熱海で行われた会議の帰りに車で走っていた時に地震に遭った坂本さん。現場で被害を受けたわけではなかったそうだ。家に帰る途中、道中で出会った警察から「避難しろ」と言われ、家族をパジェロに乗せて夜の21:30くらいに河内高校に避難した。最初の2日間はパジェロで泊まったそう。とにかく寒かったようだ。

坂本さん1

インタビュー対象者:坂本勝利さん

場所 福島県富岡町本岡

坂本さん:生年月日は昭和13年3月18日生まれです。今は82歳です。名前は勝利です。父親は戦争にいっていて、手紙で男だったら勝利、女だったら勝子とつけてくれと手紙に書いてあってつけたんだね。私の世代では女の人は勝子っていう人結構います。元々柔道をやっていて三段持っています。青年時代は柔道と仕事以外何もしなかったです。タバコも吸わないし、酒飲みもそんなにしないです。最近は同級生が死んでいって、60、70で死んでいる人もたくさんいます。1人残された気分です。

震災の話になりますけども、私は福島県で60歳まで指導農業師をやっていて、そこから特農会に移りました。一年に一回の熱海である総会の帰りに車で走っていた時になんかタイヤが揺れるなと思っていたんです。そこからホテルに戻ったらテレビで車が津波に流されている映像を観て、地震と津波があったことを知りました。なので、現場で被害を受けたわけではありませんでした。当時携帯電話をホテルに忘れてしまって何が起きているかわかりませんでした。そして家に帰って道にいる警察から理由もなく避難しろと言われ、家族をパジェロに乗せて夜の21:30くらいに避難しました。河内に向かう県道の高津と街道が車でずっと渋滞で並んでいたんですよ。河内のトンネルを潜った時にバンという大きな音が聞こえたんですよ。それで河内高校に避難したんですよ。2日間はパジェロで泊まったんですよ。とにかく寒かったんですよ。3日目からは中に入って毛布ももらって、なぜかおにぎりが少なかったんですよ。私は、三分の一もらって妊婦の方にあげていました。

なぜかわからないけど、雪に当たるなと注意されたんですよ。どういう理由か全くわからなかったんですよ。

谷さん:原発事故が起きたことがわからなかったんですか?

坂本:わからなかったんですよ。ただ言ってくれた人は知っていたらしいんですよ。私は、NHKのドキュメンタリー番組を観て知りました。たまたまその保健師さんがテレビに出ていて、『混乱するからわざと教えなかったんです。』と言っていました。行政の立場から我々に配慮しながらやっていたんだなと思いました。今考えると偉かったなと思いました。そこに定かでないけれどそこに3日か4日はいました。次は、郡山に避難することになったんですよ。我々富岡の前に河内の方を避難させてからの順番になったんです。大体11時30くらいについて1、2ヶ月いました。その間は、みんなは親戚を頼って避難していましたが、私は2、3日しかいませんでした。私の周りの人達も同じで、そんなに長く居られないってことで2日か3日しか居なかったらしいです。震災の8月に舟引が0、3くらいで数値が低かったもんですからそこに家を作って12月に完成して次の年の3月には子供達がやってきました。私は富岡で家を作るのは一番早いんじゃないのかなって思ってます。そこから今は通ってますけども。

牛の話になりますけども、河内にいった次の日に家に帰ったんですよ。防護服から長靴も履いて。この時も理由がわかりませんでした。電気が通ってなかったので、発電機を借りて牛に水をやりました。2回くらいは通ったね。4月22日から入れなくなって、あとは来れないということで牛の繋ぎを全部外して離したんです。実は離す日まで1週間は来れなくて、多分死んでいるんじゃないのかと思い、妊娠している牛も全部繋いで居ましたので、恐る恐る見たら、立っていたんですよ。こんな腹パンパンになってお産間近で繋いでありましたから。子牛も繋いでありましたから。そこで走っていって切って、水も投げて、全部離したんですよ。

谷さん:牛は全部生きていたんですか?

坂本:全部生きていました。他では死んだ話聞いていましたから、生きていた時は涙が流れましたよ。そして離れ牛の話しが出てきて、そこから谷さんと交流がありました。谷さんはよくやってくれました。東京にも行って国会にも行ってくれて、本当にすごい方ですよ。でも最終的には自己責任で飼ってもいいよとなったので、効いたのかなと思ってはいます。あの当時は言葉にならないような状況でした。離れ牛になってから町民の問題も沢山出てきました。県の方で離れ牛を管理するようになってあちこちで集めるようになりました。ここでも1年くらいは管理したかな。(坂本さんの所有地)そして次の年の9月に自己責任になって、あの殺処分が決まったから、私はだいぶ町の方にも言いました。町長にも言って、だいぶ困ってましたよ。町長も殺処分したくなかったんですから。担当の方もだいぶ頭抱えて頑張ってましたけど、しょうがなくて認めたんですよ。私も随分やりやったんだけどね。今思えば、町の人も困ったんだよね。私たちと国に挟まれて。そんなことやっているうちに、我々も言うことを聞かないで枠を作って飼ってましたから。岩手大学と北里大学が一生懸命ここに来てやってくれましたよ。東大東北大は名前はあったけど、実際は岩手と北里この2つが中心でしたね。本当に、先生方にはお世話になったね。農水省も現場に来て政策転換したらどうでしょうかって言ったんですけどね、何人かが来てそれは無理でしょうねって言うんですよ。理由が、農水省よりも経済産業省の方が力が強いからって言われたんですよ。その時に、東大の獣医学部の来年から農水省に就職の6年生の女の子に会って、頼みますよなんて言って電話番号教えてもらいましたね。そんなこともありました。7ヘクタールを囲ってやっていました。よくやりましたよ。焼き杭を地面に打ち込んで、柵で囲ってって。一箇所だけなぜか柵が壊れて、牛が脱柵してくんですよ。原因は、リーダーの雄に牛達は追っていくもんですから、雄牛が柵を超えると柵がそのうち壊れるんですよ。結構これが問題になりました。役場や警察から電話がかかってきて、なんとかしろと。警察は優しかったですね。とにかく牧柵の管理が大変でした。そして去年(2019)の10月24日に除染するということで殺処分になり、殺処分しました。とにかくね、放牧しているから牛の健康状態もいいんですよ。背線や毛並みツヤもよくてスタイルも良いんですよ。とにかく、殺処分の日には処分して埋める時は他の牛には見せるなということで、ブルーシートを張って見せないようにしたんです。牛は喋らないけれど情があります。前ね、お母さん牛が水を飲みたくて溝に落ちて死んでしまったんですよ。そしたら、子供牛はずっと側にいるんですよ。あと親子関係もありますよね。餌を食べている時なんかは、体が親よりも随分大きい雄牛も親の雌牛には必ず反抗しないですからね。牛だけじゃないですよ、猫だって犬だってみなそうですよ。人間だったらね、逆で親に反抗する時なんてあるでしょ(笑)。牛も、喋んないだけで長年飼っているとわかるんですけど、言葉にはできないけど、信頼関係があったら良い関係になりますよ。

雌牛は泰衡(やすひら)っていう日本一の種牛だったんですよ。宮崎県の種牛なんですね。当時は繁殖肥育一貫経営が良いと思って、震災の8年前に10頭買ったんです。雌牛はA5でほとんどランクは10でした。雄牛は4でまだまだ研究途中でした。品質はかなりよくて経営も非常によかったです。これからっていう時に震災がおきましたね。そういうことで、繁殖肥育一貫経営をこの辺の産業で栄えようと思ってやっていましたね。

谷さん:震災の時は何頭いましたか?

坂本:12月に10頭出荷しましたから、26頭くらいですね。雌牛は15頭、残りは肥育が11頭でした。

谷さん:餌はどうしたんですか?

坂本:粗飼料は自分で作ったり私ライセンターやってましたからその周辺の人から大体6ヘクタールくらいいただいて集めたんですよ。大体2/3くらいは周辺の人に藁を頂いていましたね。粗飼料的には厳しかったですよ。7ヘクタールだって苗木もありますし田んぼもありますし30頭くらいの牛を飼うには粗飼料は足りなかったね。だから本当に厳しかったですよ。

谷さん:前にも聞いたんですけど、飼料の確保はそれは全部夜にしたんですよね?

坂本:私は藁を集めるには本当に苦労しました。天気に左右されますから。一回集めて乾燥させて2、3日かかりますから。それを機械で結束してまた集めなきゃいけない。それがまた大変なんですよ。だいたいね夜中の3時頃まで。もう朝ですよ。前の方の部落の田んぼの藁を集めてきたんですよ。だから本当に他の人から見てみれば夜中何やってるんだろうってなったわけですよ。濡れたら大変ですから。その日のうちに集めるが本当に大変でしたね 。もう言葉に表せねえ。

だからやっぱりやるっていう努力だね。大学に行く人は勉強一生懸命やってやっぱ努力だよね。継続だよね。

谷さん:粗飼料は富岡産何ですか?

坂本:100%富岡産です。農耕飼料については畜産農協で全部やってくれましたから、畜産組合ですね。それでね話はちょっと変わりますけどここに変な草が入るんですよ。見たことない匂いの変な草が入るんですよ。昔、ミャンマーの遺跡に行ったらその草が沢山生えてるんですよ。つまりね、 とうもろこしなんかの輸入の餌にそのタネが混ざっててここでも生えるわけですよ。それは変な匂いするから牛が食べないのでその草を刈るのも大変でしたね。

谷さん:畜産組合ってことは富岡のせりに出していたんですね?

坂本:はいそうですね。 畜産組合に牛を登録して自分で飼って、登録証ってのがあるんですけどどこで生まれたとかは全部わかるんですよ。耳標がついてますから。

谷さん:双葉の子牛って凄い評判良かったんですか?

坂本:双葉の子牛はね、昔の話するんですけど野月っていう子牛がいたんですけど、当時は日本で一番の種牛だったんだぜ。双葉の子牛っていうのは元々有名なんですよ。野原の野に月これは有名なんですよ 。なんで周りから買いに来るのかわかんなかったんですよ。それでね野月は繁殖はやるけど肥育はしてないですから、最後の仕上がりがわかんないですよ。もちろん業者も教えないですから。だってここに来たら安く買えるから。だから後からいなくなる頃に、ここの子牛が非常に良いことを知りましたね。そういう時代がありました。当時は日本中から本当に買いに来たんですから。日本一ですから。なんで私が繁殖肥育かっていうと、子牛の値段っていうのは変動があるんですね。やっぱり子牛を自分で生産しながら肥育まで持っていく経営が理想かなって思って始めたんですよ。肥育なんてのは人間で言う糖尿病と一緒ですから。足腫れてパンパンに膨らみますし、目は見えなくなりますし、倒れるか倒れないかのギリギリで出すんですよ。私のところも一年に一回は倒れて角が引っかかって死んでいることはありましたね。なので、出荷するにも計画的にしないといけないので中々大変ですね。なので、良くなるかなって時に震災でしたね。

坂本さん2

震災が来てすぐ電気が止まりました。牛に与える井戸水はポンプでやってましたから発電機は必要でしたね。結局離したので、2、3回しか使わなかったです。初めての9月に一時帰宅に家に帰ったら米が全部盗まれちゃって、30キロの袋が80体あったんですよ。山に積んでね。餌米として置いておいたんだよね。そして借りてきた発電機もみな持ってかれました。だから弁償しましたよ。確か10万円だったかな。

安久津:米をなんであげてたんですか?

坂本:そこにねプリマハムがあるんですけど、昔豚に米をあげて試食するっていうのがあってね、それを私は牛で研究したんですね。消化不良起こすので米を粉にして少しずつあげてましたね。

これで一番勉強になったのはね、放牧しても100%牧草でも牛は飼えるってことを勉強になりましたね。だって冬も生きていたんだもん。野生で青草がなくても生きていたんですもの。だから牛の生命力って凄いですね。馬を離しているところありますけどなるほどなってわかりました。私は体験したことがなかったので、初めてわかりました。かえって農耕飼料はやってだめなんだよね。むしろ健康状態が良くないんだよね。それを私たちは青草もあまりない、多頭の割には牧草もあまりないから、配合飼料とかでやってましたから、牛としては良い飼い方ではなかったのかなって今思いますね。

放牧が理想なのですが、日本は面積が小さいですし、ニュージーランドみたいに広い土地で放牧して自由に飼うことは難しいですから舎外で栄養管理をしっかりして、多頭家も飼えるかだと思いますね。

水田は自然のダムだって良く言ってますけども、それと同じくこれからは放棄地を管理するためには家畜ですよね。一番手間がかからなく良い方法ですよね。それを私は体験できましたもん。それができれば放棄地なんて問題ないと思います。でも、個人個人の所有がありますからそのへんがどのように解決していくかですよね。

谷さん:所有バンクみたいに行政の方で個人個人の土地を把握して段取ってくれると楽ですよね。

坂本:それも法律を作らないと中々難しいんじゃないんですかね。個人個人考え方は違いますからね。地方では土地への執着心が強い人がいてますからね。それも止むを得ないとは思いますけども。荒れた土地は固定資産税が5倍になるとかありますけども、国土を守るってことは大事ですからね。

谷さん:電柵の設置方法ってわかっていたんですか?

坂本:わかりませんでした。これは岩手大学の方々が来てやってくれたんですよ。あとは北里大学の先生が来てやってくれたんですよ。本当は薔薇線で良かったんですけど、別にやってもらわなくても良かったんですよ。でも来てやって頂きましたから黙ってしてもらいましたけど。

谷さん:当時大切だと思った事はなんですか?

坂本:粗飼料が1番当時大事でしたね。当時中通りから2tダンプカーで丸い藁を運びましたけど、カーブで転がりますから警察に止められたんですよ。ダメだって言われて警察とやりあったんですけど、やりすぎると公務執行妨害でやられるからわかりましたって言って100キロもする餌を置いてきたんですけど、そしたら別日、付けるの手伝うからって言って運びましたね。いや、警察とはやりあいましたよね。まずね、他から来た警察はね実態がわからないから困ってしまうんです。地元の警察の人はわかるんだけど。もう遮断された道路を牛が通るように線を引いたらですね、関西からきた警察がダメだっていうんですよ。車も通れないし、町道ですし。役場に行って話したり、土木の人とも話してますし、自分の土地をつなげているだけですから。結局地元の警察から良いって言われたんですよ。当たり前なんだよな。若い奴はわからないっていうか。何回も親方呼んで、公務執行妨害は大丈夫ですかって聞いて、まだ大丈夫ですなんつって、冗談話もしましたね。

確かにね、他から来た人はここの事はわからないけど、一生懸命やってくれてたと思います。良い人もいますけど、あの人は若い人だったかな。まだ勉強足りねーなと思って(笑)

谷さん:これからどういうことが必要だと思いますか?

坂本:パネラーで行った時に、放したら凄い綺麗になったので、そういう現地をみて政策転換をしたら良いんじゃないのかって話したんですけども、国では現場を見て機敏に動くことが大事だと思ったのと、被災地の中で牛がどういう風にして生きていくかっていうこと、それから放射能に対しての何て言うかね体に影響する状況をやっぱり農水省でこういう機会に真剣に研究する必要があったんじゃないのかなって思いましたね。アメリカのね、何て言う大学だったかな、二人ばっかり来たんですよ。この際放射能の牛の体に対する影響を研究、勉強すればよかったのかなと思いますね。だから岩手大学辺りではそういう資料をかなり持ってるのではないかと思います。あと北里大学も思います。東北大学も名前は出ましたけどもどこのデータをどっかから取ってくるのかちょっと分からなかったんですけども、とにかく岩手大学は最初から最後までやってますから、今でもやってますよね。私はそれから外れましたけども。

谷さん:大倉山牧場を使用して放牧するのはどう思いますか

坂本:大倉山牧場私も震災前に前の遠藤町長に言ったんですよ。広くしてなんとか柵を張って放牧できないかっていうことをやっていたんですね。元々議員の時にですね。

しかしねあそこの牧場は狭いんです。そしてダニが多くてですね、事故がすごい多かったんです。ダニを駆除してどうにかして放牧できないかと思って行ったんですけど、できなかったんです。そして阿武隈山系はですね石が多いんですね。そしてですね草自体もですねあんまり良くないんですね。 

坂本さん3

アメリカに行った時ですね、100キロで飛ばして1時間もずっと車を走らせてもまだ牧柵が続いているんですよ。アメリカは本当に凄いですね。アメリカって特に管理していないんだよね。水はスプリンクラーで散水して草は自然の草ですから。餌なんか無料ただみたいなもんですから。だから日本見たらあれは競争できないですよ。ニュージーランドは放牧してまだ管理していましたね。

谷さん:よく舟引から通いましたね。

坂本:実はね私はね5回ぐらい危ない思いをしました。川内でも崖に落っこちるかなっていうのが5回あります。後はトンネルの中で滑って対向車が来なかったから良かったけど道路が凍結してですね。私はね今度ねいわきの方に引っ越してきてと思ってはいるんです。これからこここの解除になったらね、あるいは運転免許がなくなったら電車で通うので。

私は87くらいまでは車の運転でと思ってるんです。いわきあたりに家を建てて電車で通えばと思ってます。 ここにはまず帰ってくると考えてます

子供達も退職まで10年あるのかな。子供達も帰ってくる予定ではいるんですけどもここの状況次第ですね。

谷さん:牛のために今はどれくらいだったら通えますか?

坂本:やっぱり30分ですかね。震災直後は私は通いましたけど。広野とか楢葉とか河内から富岡に通うのは良いけど、人それぞれだだと思いますけど、一般的にはそうでしょうね。片道一時間半ですから。やっぱり本人の意思次第ですかね 。

早く除染して欲しいって言ってますけど、ここの土地は砂混じりの土地なんですけどやっぱり通気性がいいんですねここは。黒道場で火山灰の通気性がちょっと何て言うかな構造が還流構造になってしまってる傾向があってそのが入れば多少通気性がよくなって排水が良くなるのかなと思って意外といけるんです。だから雑草が多いんですよ。私はね本当に若い時は苗木屋の息子で毎日毎日草取りですから。それなら苦労しましたけどね。除草剤ができてからは問題なかったですけどね。

ここに5センチぐらい入ってるとは思うんですけど、初め入ってないんですよいい加減なんだもん。業者にねだからやり直しされてさせたんですよ。東京新聞にも取り上がるからってね葉っぱかけたんですよ。

いわきにも一応土地を確保してるんですよ駐車場にしてあるんですけども駅の近くなんですけどもね通うためにねだから免許はなくなった時点まででも考えではあるんです

駅からは電動の自転車あるからね結構楽だねあれね。通える段階まではいいのかなって思いますね。足が最近悪くなってきたんですよ歩かなくなってきちゃってね。

歩かないと駄目なんですよ。これでも尾瀬に行ってきたんですよ。尾瀬が紅葉でいい時だったんで行ってきたんだけども、これで最後かなって思いながら行ってきましたけども。

谷さん:頻度はどのくらいだったんですか

坂本:1日おきぐらいは来てましたよ。その後は毎日来てましたね。杉の苗の木なんてね2 M ぐらい大きくなってましたね。それを毎日刈ってね、痩せたなあなんて言われましたね。それ終わってから牧柵をはりましたね。

安久津:牧柵貼ってからは何日ぐらいですか

坂本:二日に一回ぐらいは来てましたよ。本当に来てましたよ。

安久津:よく船引から二日に一回来てましたね。

坂本:これはね今考えれば本当にわき目も降らないって事あっけど、一目散に来ましたね牛のために。

餌を買うようになってからは三日に一回ぐらいだね。牧柵の管理ってのもありますから。二日に一回くらいはやっぱり来てたんじゃないですかね。脱牧されるのが怖かったんでね。役場から電話かかってきますから。とりあえず僕じゃないところでも電話かかってきました。松村くんちの雄牛がくるんですよ。ここの環境が良いからこっちに来て帰らないんですよ。3ひきばかり来てどうしようもないから県の方で処分してもらいましたよ。そしてうちの牛も連れてかれてね。雄についていく習性があってね。そして山に行ったり畑に行ったり、雨降って2、3日すると帰ってくるんです。自分の家がわかっているんです。何回かありましてね。松村くんにも電話しましたよ。牛をなんとかしてくれって。わかったって言ってもまだ牛がいたんですから。まず松村くんは最後まで管理する責任がなくてね。

谷さん:他の農家の方に、福島から伝えられることはなんですか?

坂本:牛飲馬食って昔からいいますけども、粗飼料と水が絶対必要だね。一時的に助けるためにはこれさえあれば生きていけますからね。基本的ですけど、水と粗飼料さえあればどこでも飼えますからね。だから水を求めて堀に入って死ぬんですよね。入ったら出れないんですよね。

谷さん:経済的に価値のない牛なのに、どうしてこんなに苦労して餌をやったんですか?

坂本:牛に対する愛情だべな。それに尽きるね。まずは経済的な要素と牛に対する愛情がなかったらまず無理だね。心苦しいけれど最終的に処分してしまったことについては経済動物として見ていたんでしょうね。経済動物として見るんじゃなくて一つの動物として見たことでしょうね。肥育して初めて出荷する時には涙を流しましたもん。そして何回か繰り返すことによってそれが慣れてきて、経済動物としての感覚になってしまったんでしょうね。周りがそうだから。やっぱりこういう状況になった時にはそういうものが振り払って元に戻っちゃったもんね。一つの生き物として。だから鶏殺せって言われてもできないですもん。恥ずかしいことに。昔はできましたけども子供のころは、今はやれって言われてもできないですね。

安久津:状況は違いますけども、うちの爺ちゃんも殺せないって言ってましたよ。

坂本:やっぱりじゃあ同じだね。

私ね最近思うんですけど、1R当たりどのくらいかけてやっているのかなって。

そういうことを考えるとね放牧すれば牛は綺麗にやってくれますよ本当に綺麗にやってくれますよ。除染して重機かけてこんな柳木なんかも掘り起こしてね相当かかってますよ。多分私のところだって何億ってかかってると思いますよ。3たんで5000万円らしいです。除染だけで5000万円なので、伐採や抜根を入れるともっとかかりますよ。だからね、そういう荒地を維持するためには牛の力は絶大ですよ。特にね和牛ですよ、乳牛は乳を絞らないといけないですからね。ある程度になったら次に離せば良いですから。オランダとかは2日おきくらいに移動させて計画立ててやってますよね。そうやって循環していけば日本の農地なんて簡単に保てますから。しかも繁殖の事業ができますから。農水省はねこういった事業を考えた方が良いと思います。

私は舎内ですから、放牧の知識は全くわからなかったですよ。北海道とかアメリカとかね良いって知ってはいましたけども、見た事はないし体験した事もないですから。今回初めて体験して新鮮で、オランダとかの綺麗な放牧とかも今回体験して、なるほどと思いましたよ。だから畜産、特に和牛の力を借りた方が良いと思いますよ。ヤギはダメだね。そのためには水の確保ですね。

谷さん:将来的には牛飼たいと思いますか?

坂本:ありますよ!ただね、私82ですから、除染は2年か3年立たないと解除ならないですよ。

坂本さん4

坂本:耕耘してどのくらいかかるかって事なんですよ。0.3多くても0.5まで下がってもらえれば、あとは土を30センチくらい積めばなんとかなると思っているんですけども、これからが問題ですね。牛飼ってもしょうがないですから。飼う予定はしているんですけど、条件が揃わないと。舎内は意味ないですし、管理が楽ですから。話が飛び飛びですみませんね。

坂本さん5

コメント

タイトルとURLをコピーしました