「※【コニシ感想】※【コニシ補足】」でお馴染みのコニシです。コニシの独断と偏見で選んだ牛飼いの方々の印象深い言葉をここにまとめさせていただきました。あの日あの時あの場所で、彼らが何を見て、何を経験し、そしてそこで何を思ったのか。ぜひ一度目を通していただけると幸いです。生き証人である彼らの紡ぐ言の葉たちに、今、何を思ふ。
・「ようは一年分ストックするから。」(大熊町の池田さんより)
インタビュー中サラッと放たれた言葉「一年分のストック」。これは並大抵のことではない、ということは牛飼いの方々であったらお分かりいただけるだろう。牛飼いには莫大な費用がかかり、一か月分ストックするのでやっと、という牛飼いの方々も少なくはないだろう。さらに池田さんはエサを自給自足で作っていたのだという。そのため、東日本大震災を受けて餌不足に陥ることもなかったそうだ。「水」「餌」「自給自足」、この3つは牛飼いの方々を取り巻くキーワードであろう。いや、今後、全人類にとって必要とされるキーワードに違いない。
・「ラジオ聴きながら寝てて。でも何言ってんのかわかんないの。」(大熊町の池田さんより)
避難を余儀なくされる中、車の中で夜を過ごした池田さん。ラジオを聴きながら横になっていたそう。ラジオは災害時の必需品とも言われており、地震など災害時に防災ラジオがあると、その時の不安度が変わる、という。しかし、その時の池田さんはラジオから流れてくる音声が耳に入ってこなかったそうだ。「とにかく危険だ」ということ、「(原発から)3 km 圏内は入れない」ということだけは頭に刷り込まれた、と。東日本大震災の凄まじさがこの言葉から容易に想像できるのではなかろうか。
・「水があったから助かっただけ。」(浪江町の山本さんより)
「水」「餌」「自給自足」の大切さをまたしても痛感させられる言葉である。生き物を生かすにあたって、水は欠かせない存在なのだ。現に、震災後山本さんの牧場には近所の牛飼いの飼う牛たちがたくさん集まってきたそうだ。それはひとえに自然の水(山からの水)があるから、水を求めて牛も移動してきたのだ。インタビュー中も家の外から水の流れる音が聞えてくるなど、自然の水と共存する方々は逞しく見えた。
・「いつでも牧場を提供します。」(浪江町の山本さんより)
ここまで心強い言葉があるだろうか。東日本大震災という未曾有の災害を経験した山本さんは既に先を見据えている。牛は300頭、人間は200人、この数を受け入れる体制を山本さんはこの10年間で、いやもしかすると震災以前から整えてこられたかもしれない。私自身、実際に山本さんにお会いしたことがあるわけではないが、彼の不意に見せる表情、時折遠くを見つめる様子には終始見入ってしまった。彼はどこか違うところ、異世界にいるのではと。常に50年先、100年先、200年先を見つめ、歩みを進める山本さんは勇ましい。
・「牛の水やりは朝晩120杯ずつ運んだよ。1日でバケツで240杯だ。」(富岡町の半谷さんより)
牛の1日の平均飲水量は80~100ℓである。とにかく水を飲む。半谷さんは自分の牛だけでなく、よその牛にもエサや水を分け与えた。牛たちの中には水を飲もうとして水路にはまってしまったものもいたそうだ。家の近くにある井戸にひっきりなしに向かい、朝晩、両手で持てるだけのバケツを持って水を牛たちのもとに運んだ半谷さん。何としてでも牛を死なせない、という強い気概が感じられる。
・「やっぱりたまげない心だべな。放射能もたまげなかった。」(富岡町の半谷さんより)
半谷さんが震災下においても忘れなかったこと、それは「たまげない心」であった。これまで様々な苦悩を乗り越えてこられた半谷さんだからこそ言える言葉であろう。「たまげる」は漢字で「魂消る」と表記する。「こりゃたまげた」「あらたまげた」と言ってばかりいると、魂が消えてしまう。半谷さんの魂がメラメラと燃えているのは「たまげない心」を大切にしているからなのかもしれない。
・「2時間よりももっと遠いじゃねえか3時間ぐらいはかかったな。」(楢葉町の根本さんより)
「2時間~3時間」、この数字から皆さんは何を思い浮かべるだろうか。根本さんは震災後、片道2~3時間もかけて牛のもとへ通っていたのだ。過労がたたり、作業中意識不明となり、倒れてしまったこともあったそうだ(2週間程入院)。間違いなく「過労」である。だがしかし、彼にとって、いや全牛飼いにとって震災直後は動かないほうが苦痛だったのであろう。牛への愛、牛飼いとしての使命感がひしひしと伝わってくる。
・「ただ暴走して山の方まで行っちゃった牛もいたみたいだな。だけどやっぱり餌が欲しいから次の日あたり集まってくるんじゃないの。牛ってそういう習性があるからね。」(楢葉町の根本さんより)
地震直後は動揺しなかった牛たちも時間が経つにつれ周囲の変化に気づき、興奮状態に陥り、暴走してしまう子もいたそうだ。ただ牛たちも腹は減る。一時の興奮状態により暴走していた牛たちも一晩経つと帰ってきたそうだ。牛は本来、群で生活する動物「群生動物」であることに起因するのだろうか。
・「牛飲馬食って昔からいいますけども、粗飼料と水が絶対必要だね。」(富岡町の坂本さんより)
「他の農家の方に、福島から伝えられることはなんですか?」という問いに対して真っ先に飛び出た言葉である。一時的に牛たちを助けるためにはこの2つさえあれば申し分ないと言う。水と粗飼料さえあれば場所を問わず飼える。
・(経済的に価値のない牛のために血のにじむような苦労をして餌をあげたことについて尋ねられた際の回答)「牛に対する愛情だべな。それに尽きるね。」(富岡町の坂本さんより)
前提条件として経済的な要素、そして牛に対する愛情無くして牛飼いは務まらない、と語る坂本さん。最終的には出荷してしまう牛たちではあるが、経済動物として見るのではなく、一つの動物として見ていたことが伝わってくる。彼はまた牛飼いをしたい、と話す。もし私が坂本さんの立場だったら、また牛飼いをしたいと思うだろうか。あれだけ辛い、大変な、いや辛い・大変などといった簡単な言葉では表せないくらいの経験をしたにもかかわらず、また…?私には理解ができなかった。だが、彼のこの後ろ姿を見た時に腑に落ちた。「ああ、本当に彼らのことを愛していたからこそなのだな」と。
【コニシあとがき】
まずは「【インターン生特別投稿】教訓~あの日あの時あの場所で~」を最後までお読みいただきありがとうございました。コニシの独断と偏見で選んだ牛飼いの方々の印象深い言葉を紹介させていただきましたが、いかがでしたか。あの日あの時あの場所で、彼らが体験したことを追体験できたでしょうか。私自身、生き証人である彼らの紡ぐ言葉たちがこうして日の目を見ることができたこと自体に意義があると思っております。一人でも多くの方のこれからの人生において、彼らの教訓が生かされますように。
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