池田光秀さん・美喜子さん夫妻(大熊町・帰還困難区域)60歳・64歳

被災農家の声(インタビュー)

①種:和牛 

②頭数:震災当時は31頭飼育(親17頭、育成3頭、子牛11頭)、現在は24頭牛を飼養管理 

③電気:無し 

④水道:無し(水桶は無かったので後から購入。近くに川があったため水には困らず。) 

⑤エサ:3カ月分のストックあり 

⑥当時のエサやり(通った)頻度:月1回月2回週1週21日おき→毎日。水の中に乾燥藁や草をばらまいた。 

⑦震災当時の状況把握:避難時もラジオを常備しており、ある程度の状況把握はできていた。(原発から6km付近) 

⑧放牧:敷地は60a(当時電柵で囲っていた面積で、現在牛がいるところ) 電気柵は知っており、放牧経験あり。  

⑨牛の移動:2t車保有。トラックに乗せるときは後ろから押す。柵で囲うときは餌で釣る。みちこなど名前を呼んだら隠れていたが出てきた。 

⑩金言:「諦めない。」「大変だって思わないもん。」「(特にすごいことやってないから)何にもない。

 地震発生時、自宅にいた池田さん。「明日からどっから片付けよう」と思っていたそう。隠居を片付けて、牛小屋片付けて、母屋を片付けないと、と。当日の夜は車の中で過ごした。怖くて寝れなかったそうだ。3月12日の朝、水の中に乾燥藁とかとか草とかをばらまいた。震災後は田村、郡山、裏磐梯、喜多方と転居を繰り返したそうだ。

池田夫妻①@大熊町

池田さんです。

はい。

3月11日からお願いします。原発事故があってからと言うか、大震災であの揺れがあったところからちょっとあのどういうところにいらっしゃってどういうあの牛とかどういう状態だったとかちょっとそこからお願いいたします。

地震の時は自宅

ここですね。

はい。あの、年度末調整の書類やってました。確定申告。

※【コニシ感想】地震が起きた際、年度末調整として「確定申告」をしていたという事実が私に更に恐怖を植え付けた。確かに3月中旬というと、決算の時期だ。

そうですよね ちょうど。

テレビ見ながら。揺れてる間中家の中にいました。

※【コニシ感想】揺れている間、家の中にいたという池田さん。私は2021年2月13日に地震が発生した際、思わず外に飛び出してしまった。そんな私と違って、肝が据わっているな、と感じた。

すっごい驚きますよね。あんな凄い揺れで。

うん。経験したことない揺れだったね。その後は、あああっと家の中見まわして、年寄りの隠居に行って、牛小屋に行って、牛小屋は大して被害なかったんですよ。

※【コニシ感想】地震大国、日本に長年にわたり住む方であっても体験したことのない揺れ。私自身、被災はしていないものの、マグニチュードや震度が徐々に上がる様子をテレビ画面を介して目の当たりにしていた。未曾有の災害、未曾有の事態。日本中が、いや世界中が震撼した。

そうなんですね。倒れたりとか。してないんですか。極端に大きな物とか。


うん

何か壊れたりはあったんですか、落ちてたりとか。

(画像:震災当時の心情や様相を語る池田さん。)

うん多少はね。まずはああ、これ明日からどっから片付けようていうまず、1から最初から隠居だべなー、隠居終わったら牛小屋片付けて母屋は最後だわな思ってましたね。うちは擁壁が倒れたんで川に川にかかって、だからもう牛小屋が水が上がって水没しちゃったって言うか、水浸しだったんです。水、とにかく水止めてもらわなくちゃいけないから役場に行って水道止めてくださいって頼んできて。

その日中に行ってことですか。

そう。夕方止めたからって言われたんですけども。でもここ湧き水が多いから止めても水止まんないんですよね。だから牛小屋自体は床 20センチくらいはあったかな。だからあの小屋にいる子も水没してるけど放牧してる牛もやっぱその全部流れているからそっちも20、30 cm 、どこに行ってもだから水の中だったですね

※【コニシ感想】湧き水が豊富な大熊町。湧き水が出る土地な故に水没被害も深刻だったようだ。

牛舎と放牧地両方に牛がいたんですか。

うん。2か所に分かれて

何頭何頭ぐらいだったか覚えていますか。

ここのすぐそばの牛舎は親牛が4頭に、子牛が12くらいだのかな。牛舎ですね。で、放牧地の方は20頭くらいですね。15、6全部で31頭だったんで。

牛たちの様子はどうでしたか。

いや別に普通。全然慌ててない。うん、平気。

※【コニシ感想】牛が地震で騒がない、慌てない、鳴き喚かないというエピソードが度々牛飼いの方々から出てくることに驚かされる。私なんかよりよっぽど冷静だ。

そうですか。結構大きい揺れですよね。牛にとっても。

もうもう騒がない。怪我とかもなく怪我とかもなく。

良かった。騒ぎもせず。

(画像:地震発生直後の牛の様子を語る池田さん。思わず笑みがこぼれた瞬間であった。)

うん。大人しい。普段通り。どうしたのって感じ。腹減った餌は、っていう感じでしたね
ただ停電になっちゃったんで、放牧地の牛の電柵がストップしてました。

じゃあ元から電柵だったんですね。


うん、放牧のほうは。やっぱあんまり面積が大きいから単管パイプでやり きれないんで、電牧、使ってました。ただ、家庭電気を使っていたから。

そうですよね。

ソーラーパネルじゃなかったんで、ブチです。電気が入ってなくて囲ってあるって言うだけ。

どうしましたか。

停電で、夜は真っ暗ですよね。家の人帰ってこないし、会社から帰っていいって言わなくて、要は現場建設会社だから現場に行った人は全員会社に戻ってきてないから帰っていいって言われてなくて、帰って来れなかったんですよ。6時過ぎてたのかな。帰ってきたのが。18時。18時過ぎ。

どういう様子でしたか。

別に普通でした。ただ、うちの旦那が地震の時、ちょうど会社に戻ったくらいだったのかな。1時間くらい前までは津波来た現場にいたので、熊川で。1時間に地震が早かったら極端に言ったら津波が来てたらあっぱっぱっぱ

ギリギリでしたね。

だったね。良かった。帰って来るにもねこれなかったんだ。道路が混んでてで。双葉ら辺は電気が来てたよって言って、うん、でこっち、大熊に来てから、停電だったんだね。双葉で電気ついてたって言ったから、じゃあ家、実家、双葉だから何か貰ってくか。くいもんでもって言って双葉まで行ったのよ。そしたら電気ついてる。テレビも見てるのよ。

同じ東北電力ですよね。

本当にね。びっちりね双葉はついて大熊はつかない。はっきり分かれてた。

双葉ついてたんだ。

(画像:当時の実家の様子を笑顔交じりに語る。)

うん。うちの実家の方は電気はついて何にもなかった。影響なかった。ご飯炊いて夕飯の用意してた。なんか食いやていうけど黙って帰ってきた。もらいに行ったんだけど。

そこなんか遠慮深いですね。

帰ってきてからね、切り餅を練炭で焼いて。練炭があったんですねうちの旦那に食べさせてあげた。私は食べたくなくて食べなかった。

やっぱショックでですか。

やっぱ。うん、そんで年寄りは公民館に避難してたから、良かったんだけど夜はね車の中にで寝た。家の人(夫)は家の中に寝るって言ったけど。私は、怖くて寝れなかった。嫌だって言って車でワゴン車で寝てたね。ラジオ聴きながら寝てて。でも何言ってんのかわかんないの。3 km 圏内立ち入り禁止とか、なんとかとか言って、突然、危ないっていうような話しして飲み込めてないのね。ただ3 km 圏内は入れないっていうのしか頭になくて。牛も別に騒ぎもしないで、あのね横にならなかったのかな。中は水浸しだったから。

※【コニシ感想】地震など災害時に防災ラジオがあると、その時の不安度が変わる、という。しかし、池田さんの言葉「ラジオ聴きながら寝てて。でも何言ってんのかわかんないの。」からも東日本大震災の凄まじさが伝わってくるだろう。

(画像:「ラジオ聴きながら寝てて。でも何言ってんのかわかんないの。」と語る池田さん。)

次の朝、餌かせてたんですね。

水の中に乾燥藁とかとか草とかをばらまいてた。

ロールですか。

ううんコンパクト。ほぐしてばらまいてかせてた。

ストックがあったんですね。


ようは一年分ストックするから。

※【コニシ感想】サラッと「1年分ストックするから。」と仰っているが、これは普通ではない。1か月分ストックするのでやっと、という牛飼いの方々も少なくはないだろう。

どれくらいの量残ってたんですか。3月ですよね。

3月だから藁だって半年分あるし、草だって4月だから、夏くらいまでは持つくらいの。乾燥も十分に。

3ヶ月は持つやつですね。

うんうん。

へー。すごい。自給自足で、人からもらわなくても間に合うだけは作ってたから尊敬します。すごい。
じゃあ特にあの地震で餌不足っていうのはなかった?

うん。全然ない。

※【コニシ感想】「うん。(餌不足なんてこと)全然ない。」。ここまで心強い言葉があるだろうか。いや、ない(反語)。

で、水は溢れるくらいあったってことですよね?

うん、いらないくらい。

※【コニシ感想】湧き水の重要性がしみじみと感じられる。「水」「餌」「自給自足」、この3つは牛飼いの方々を取り巻くキーワードであろう。いや、今後、全人類にとって必要とされるキーワードであろう。

水の出方は電気で流す奴だったんですか?

送水それともその引き込んで今みたいに。片っぽは浄水で片っぽは井戸水。両方使ってた。牛舎では開けてたから。特に水の心配はなかった。うん。ただお湯は沸かせないから。子牛にミルク作れなくて。

どうしましたかそれ。千葉でもそういうのあって。飲ませなかった。

うん。お母さんのあれ(乳)だけうーんとねある程度大きくなってたからそうなんですね極端に1ヶ月2ヶ月くらいになってたから。うん、乳ばなれするころ。3頭、4頭くらいいたのかな。人工保育していたの。ごめんね、今日はお湯沸かないからミルクないからって言って夜飲ませないで、次の日も飲ませないで。

草を食べてましたか。

うん。食べてました。

じゃあ、大丈夫。

一番末っ子は帰ってこないのね。行方不明のままなのね。震災前に生まれた一番末っ子は。

※【コニシ感想】未だに行方不明な牛がいる、という現状自体は知っていたつもりでいたが、実際に現地の声を聞くと心が痛い、、

そうなんですか。

わかんない。だから下から2番目の子は親が飲ませたからつい最近までいたの。

そうなんですか。

3月になってから帰ってこなかった。耳標も付いてなかったから。うん。

本当に何日かぐらいですか?

3月に生まれたってことは。10日、一週間くらいかな。

まだピヨピヨですよね。

しゃんしゃんしゃんにはなってたから元気になってたから。帰って来なかったっていうのはどっかにあの行っちゃった。親は生きてたんだけど子はわかんない。一番最後に生まれたのは。その前の子は親と一緒にいたからつい最近までいました。だから結構人工保育してた子もみんなある程度草を食べてたから生き延びたんだろうね。死なねでみんなでほとんど回収できたから。

すごいですよね。

子牛は最後のひとつくらいかな回収できないの。あと、育成牛は3頭ぐらい返ってこなかったね。

※【コニシ感想】池田さん自身、最後に生まれた子牛を行方不明にさせてしまった、という自責の念に今でも駆られているのではなかろうか。自戒のように度々放たれる「最後に生まれた子牛」というワードが物語る。

そうなんですね。

後は回収できたのかな。16、7は。

井戸水があって川から引き込むのもあって川じゃなくて町水。

違う違う水道管。公共水道。

普通の水道ですか。

うん

これは止まってたんじゃないですか。

それも止まってる。うん、それ飲んでたのよ。牛小屋で。

牛小屋にいたやつは、水はどうしたんですか。

(画像:当時を振り返り、涙を流す場面も。)

がっぽがっぽ流れてた。擁壁が倒れたから。水道止めちゃったから。水は飲み放題要らないよ。足元は水没してたから。

じゃあその後お願いします。どうされましたか。

朝6時に防災無線で公民館に集まれって言われたから私は公民館に行ったのね。うちの人は餌課せてて、そしてどうしたのって周りの人に聞いたらトイレ危ねえから避難しだして。朝6時に。うん。私は電気も来ねえからパンかおにぎりもらえるのかなっていう感じで行ったんだけど。

食べてないんですもんね。

うん。避難すんだしけ、て言われたから、ほんじゃ自分の車で行くにはまずボンベつけなきゃって思って、ようは牛の種。 もし何かあった時、金にすんのに。うちの人餌かせてるから、避難するんだけどって言ったら、じゃあもっと餌をかせるかと、追加していっぱい食べさせて、私だけ、また公民館に行ったらバスが来るから、バスに乗って行かなくちゃいけないって言われたからね、じゃダメだなってボンベはと思って、でパスは来ないからワゴン車で四駆でスタッドレス履いてる車出せる人は出してください。って言われたの。

降ってましたよね。いやあれ降ってなかったですか。

うん次の日あたりに。2、3日後だよね。チャンスと思ってボンベつけてだしますって言って出したので車。自分ちの人だけじゃなくて近所の人も乗せて行った先から必ず帰ってきてくださいって言われるの、車は、次の人乗せんのに。で山越えて普通30分行くところを3時間も4時間もかかったんだよね。

都路の方に行ったんですよね。

うん。だから到底帰って来れなかったけど。で、牛は置いてったのね。そしたら後で聞いた話では近所で避難してない人。

避難してない人がいたんですね。

その人の話では人間が避難した日の夕方にはもう運動会だったって。道路は。電気は入ってないし、うんと走ってるって言われたよ。隣の子と。一緒に。

餌は満タンに入れたって、それは何日分だったんですか。

一食分だよ。そうだよ。一食だけ。牛舎の方は小屋からは出したけどパドックには入ってたから。

パドック面積どれくらいだったんですか。

面積一反もないな。

その電柵で囲ってたのはどれ位だったんですか

6反歩

結構広かったんですね。

(画像:どこか遠くを見つめ、涙をこらえながら語る様子。)

今牛いるところだから。ただパドックは牛舎の方はその後誰かが逃がしてくれたからだけども、じゃなかったら死んでた。牛舎そうですよね、牛舎は。小屋からは出したけどパドックはそこは単管パイプで囲ってあるからそれは誰か扉開けなかったら逃げられなかったから、誰かが開けても開けてくれたから一匹も家では死なないで被害はなかったね。これはせめてもの救いだよね。ほんとはね避難しないわけ(はず)だったけど、

そうなんですか。

こんなことない時(震災前)に近所の人と喋ってたのがね、こういう実際にこういう危ない時どうするっていう話をしてたのよ。逃げぬだよ、隠れ通すだわよって言ってた。
でも実際は探さなきゃというと迷惑かけた(だろう)から避難したけどね。船引に3月12日に行ってそこから、

その後、牛関係はどういう風に行動されたかっていうのは。

全然やらない。

船引の避難所とかに行ったんですよね。

そこはね3月の20日くらいまでかな。うん田村の体育館からまた郡山に行ったのね。うん。そっから裏磐梯。

どんどん西、西に行きますよね。

ていうか家の者の都合なのね。郡山に行ったのは。郡山から裏磐梯出れば街から入る施設言われたから、でも田村から郡山は自分達の都合で、親がそっちに避難したから、探しに行ったからそうなっただけ。

見つかりましたか。親は。

入ったところは分かったから。(見つかった)


良かったですね。

裏磐梯から喜多方だったんだね。

寒かったですか。

いや寒くはなかった。しっかり着込んでたもの。防寒着。

荷物ってじゃああれですか。

なんか。着こんだだけ。持たずに。

そうなんですね。

(画像:車に布団をつっこむ様子を再現する池田さん。)

本当にもうとにかく持ったのは牛のタネ入ったボンベ。あと玄関らへんに布団作って届いたばっかりのかけ布団が1枚あったのよ。一時期使わないで袋に入ったままの。もったいないからってそのまま突っ込んでそんだけ行ったんだね。特に洋服も持ってなくて自分のは持たなくても、旦那のボストンバックの中に入るだけ入れたから、私はただ来てたものをを寒くないように言って防寒着上も下もかこったっていう感じ。後は通帳と印鑑と持って年金手帳とか。貴重品とかですね。持っていったよね。

3月12日から20日は田村の方で、郡山は何カ月ぐらいですか。

1ヶ月間

そのまで裏磐梯はどれくらいいたんですか。

あれは5月いっぱいかな。

喜多方はどれくらいですか。

1ヶ月ぐらい。

本当に転居の転居の転居ですね。

私は7月から勤めに出るから。震災直後なのに。

差し支えない範囲で、あれですか。牛関係?

農業短大の草刈り。作業員。ようは被災者の枠。

白河の方ですか。

いや、やぶき

そうですよねあそこですよね。

(画像:一時帰宅の際、肌感で自分の牛がどの子か分かったと語る。)

でもアパートは白河だったのね。うちの旦那は畜産に入るわけだったね。そしたら会社からの呼び出しと採用通知が同時に来たの。同じ日に。会社に戻って来いっていうの。そうして会社に戻ったのね。だからもう転々に生活。そんなんそしたらそんなことがただテレビで色々やってたじゃない 。エム(エム牧場)の話とか希望の牧場の話とか。家の人が俺も許可証(警戒区域への一時帰宅立入許可証)出してみるって言った。そしたらとれたから月に1回くらい始まって秋の頃からよは、一時帰宅で牛が生きてるって言うのは見てたから、肌感とか何かで、あれうちの子っぽいよねって見て、

それ何ヶ月ぐらいですか。一時帰宅は。

一回目がね6月6月に一時帰宅の時に見てるんですね。うん。7月だかにも、今度はマイカーでの一時帰宅だったから牛がチラチラ見えるから、で乳脂農家に聞いてて エム で希望の牧場に生かしてんの。だから俺も出してみるって言って、出してくれてそしたら認められたので、お金とかそういうの集めるとかって。

役場に行くって交渉したんですよね

大熊町で一人だけだったからよく。

すごいなーって思います。

(画像:インタビュアーである谷さんとの出会いについて語る。)

違うのよ私があいつの役場に行ったら谷さんのチラシを見つけたのよ。

ほら電話かけたでしょ、私。詐欺じゃないよね。これって。

詐欺じゃないです。(笑)

詐欺じゃないよね。(笑)自分一人でこれ判断できないからうちの旦那が週末に来た時にながさんこれどうかなーって見てたんだけど私電話かけてもいい。引っかかったらごめんねって言って、ごめんねって言って、かけたのが始まり。

そうなんですね。

そしたらそういう活動があるって言うのを知ったから、大熊の地元の方がなんかあのプリントアウトしたんですってでびっくりしてそれでおいてたんですよ。あの避難所とかあちこちに。自分もし助けたいけど、農家さんにこの情報を知ってもらわなきゃみたいな感じであちこちでなんか置いてくれたらしくて、たまたま役場に行って廊下でいろんなチラシを見てたらあったから。

そうですよね牛関係のあの時はなかったですかね。

だからね田村の体育館に避難して夜、牛に餌をかせるって言って帰ってきた人もいるだね。戻ってきた人もいるのよ。

そうなんですね。

(画像:夫の様子見を阻もうとしたと語る池田さん。)

でも家の人も俺も様子見さ行ってくるって言われてでも私が何があるか分かんないからでも旦那だけが頼りだったし離さなかったの。行かない行かないで行かないで言っちゃ駄目って言って。でもかせ(給餌)に来たから何にもねがった(何もなかった)、普通だったって言って、水、ないから川に言って水汲んで牛に飲ませてきたんだって。

ポンプで組んだんですか。

何でバケツかなんかで川さ汲んだんだよね、バケツって書いてあったんですよ。ポリタンクとかバケツでやったって。水飲み場でさ行ってきたって、言ってたの。

和牛ですかねその人。

うん。

なるほど。

大熊は乳業あんまいないんですよね。

一軒かな、みんな辞めちゃったからね。何かはあったんだけど。切り替わった人もいるから。ね黒に、和牛に。

じゃあ許可証は6月の帰宅7月の一時帰宅で1回ずつは出てたんですよね。

それは国が。

国のやつですよね。

公益(町の許可証)が出たのがいつからですか。

9月くらいかな。

初めてでじゃあ立ち入りしたのはいつですか。

多分9月だと思うなその時はマイカーで立ち入って。うん。ただ見あたらなかったって感じ。どのへんに牛がいるか。

その時の気持ちってどんな感じでしたか。

何にも変わりないんだ。

牛は変わりがないってことですか。

自然も。牛も。毛艶はいいし、なんとなく牛がいそうな気配があるの。牛小屋とか、放牧場。だからとりあえずある餌を置いてかせてかせてた。それを繰り返して月1回から月2回くらいになったのかな。週1になって週2になって、1日おきにして毎日になったの。

これはどこにいるときですか。

白河。だから家の人はいわきとか四倉にいたのね。会社の寮とか仮設。会社終わって白河まで帰るのよ。

結構遠いですよね。

土曜日、たぶん金曜日に帰ってきたんだと思うんだ。そして次の日の朝、大熊に2人で来るのよ。

すごい移動距離ですね。白河から大熊に高速に時間2時間くらいだね高速って言ってもあの時広野インターまで行けたんでしたっけ。

(画像:当時、片道2時間以上かけて夫婦で牛のもとへ通っていたと語る。)

あっちはね阿武隈高原使って。

広野は空いてたんですよね確か。その後6国(国道六号線)大丈夫でしたか。

許可証あるから。道路とかは。大丈夫。うん。

その頃まだいろいろがーんってなってるところありませんでした?

火力の入り口前とか2 F の入り口一車線減ってたんだね 。車走るぶんには大丈夫。大熊に来て餌とかこの辺見て歩いて帰るでしょ。夕方帰って今度次の日の朝月曜日は朝3時に白川出てくんの。会社に行くの。


すごい頑張りましたね。それを11月から12月頃行ったのかな。

12月の末には広野に引っ越してきた。

早かったですよねとにかく。牛のために広野を見つけたんですよね。

会社に行くにも1番近くて住めるところだったから。許可証はその時毎日立ち入れるものだったんですよね。年明けてからですよね。1日おきに申請したらば、役場が1日おきの申請大変だから、通しの1月分出してくれたのよ。通しのしたものをしめしめで、逆に言えば役場だから大変だから通しでもいいですかっていう電話来て家のもとに、私は毎日入れたのよ。

すごい、それはよかったですね。

牛はね、人間いなくなったじゃない。

そうですね。

(画像:震災後、人間がいなくなったことで牛たちにどのような変化があったのか語る池田さん。)

この上の道路走って来て、牛がいるのは見える、牛が下に見えるのよ。車落ちてて人がいると一頭もいないの。隠れちゃって、竹やぶとか人の見えないところに隠れて、逃げてったり、だから餌を置いて呼ばったりなんかしたらだんだん顔出してきてそして手なずけてった。

そこをもうちょっとお聞きしたいんですけども、竹やぶに隠れてしまうような牛たちをどのように呼んででどういう日数かけて、どういう餌あげてよせたか。匂いするものですよね。

(画像:震災の発生するちょうど2、3日前に配合飼料をタンクに補充していたと語る。)

配合飼料があったから、でもね誰かが配合飼料のタンクを開けてたんだけどな。震災の2、3日前に1t入れたばっかだったから。来るたんびそれをかせてた。誰かが開けたんだべなな。みんなタンクの下に落ちてた。

それを食べたら死んじゃいますよね。

※【コニシ感想】牛は生理的に満腹感を感じないらしい。エサを食べても、急激に血糖値が上がらないため満腹中枢が刺激されないそうだ。

一気に食べたらね。

一気には食べなかったんですか。

うん。食べられたかったんですね。残ってた。

そうなんだ。でもいっぱい食べた牛はいるんですかね。

うん。最後の頃は無かったからね。乾燥とか、餌買ってきた。農協でいわき府の農協で配合飼料買って運んだ。

どれくらいの量をあげてました?

本当に一握り。400円くらいかな一頭あたり。でも誰が食べたかわかんないよ。 桶 に入れて、立ち去った後で食べてた牛たちが食べてたそれでちょっとずつ顔を出してきたっていうのが何日ぐらいというか呼ばって最初は顔も見せなかったですか。呼ばったら出てきた。

牛覚えていたんですね。なんて呼んだんですか。

みちことか。

池田夫妻②@大熊町

ちゃんと顔出してきたんですね。

うん。

目の前で配合飼料を与え始めた時にでてきたのは何カ月後くらい?

すぐ。

どれくらいですか。

1週間、10日で、すぐに寄ってきて逃げなかった。

覚えてたからでしょうね。全然知らない人だったら呼んでも来ないですよね。

痩せてはない?

痩せてはいない。

これ何月くらいの話ですか。寄ってきたのって。

割と早かったね。2月か3月くらい

配合は1頭当たり400グラムで他は天然の笹と皮食べてた感じですか。

うん。だって草を毎日おいてくだけかせねえからな。

草も置いてってるんですね。

牧草も置いてってる。

10個くらいはばらまいてたかな。

(画像:コンパクト10個をあちらこちらにばらまいたそう。)

コンパクト10個

うん。それをあちこちぽんぽんぽんとばらまいて。

ちゃんと食べてました。綺麗に。

うん。

そうなんですね。

冬場で牧草伸びてない時期だから。

そうですよね。全頭じゃないけど16頭は集まっていた。

大体それくらいは。いや、もっといたな。自分ちのだけじゃなかったから。

そうなんですね。

もうごちゃまぜだったから。

何頭くらいいた感じですか。

何頭だったかなあ。あのころは20頭はいたべなあ。最後80になったんだから。

80になったんですね。

うん。

何月くらいに80頭ですか。

そんなにかかんなかったなあ。殺処分始まって、大熊に入ってきてからだから秋までには80頭になっただべなあ

そうなんですね。

2月、3月には80頭。

いやそんときにはいない。うちの実家の牛も15,6頭は来たからその頃は60なんぼ位いたんだべなあ。

双葉ですよね。それは家畜車で連れてきたんですか。

写真の説明はありません。
(画像:震災を生き延びた池田さんの牛。)

うん。自分ちの牛小屋に入ったのを捕まえて、入ったとき見計らったのをいって捕まえて。

見計らって行ったんですね。

ようはそん時遊んだり牛舎に戻って寝たりしてるから。

餌を置いてた。

ちゃんとおいてたんだとおもう。

置いてて入ったときに捕まえて、家畜車は何トントラックですか。

2トン車

2トンで何回ピストンで。

1日1回くらいだ。

1日1回で、7日間くらいかけて。

いや、もっとかかったね。しばらくは。何カ月もかかった

1回に何頭ですか。

1頭、2頭くらいとか子牛なら3つとか4つ。親子とかつけて。

(画像:大熊町下野上にある池田牧場の様子。)

これは何人でされたんですか。

2人

誰と。

兄貴と。長男と。2人で。

そうなんですね。 大変じゃなかったですか。

大変だって言えば、うん。 捕まえるときにね、小屋に押し込めないと捕まんないから。

押し込めたやつはロープで、目視作って。

うん。

鼻輪とかは。

鼻輪ついてた。

で、トラック乗っけて。

それはクレーンがついているトラック。

ううん。

普通の。

うん。

普通の家畜車。クレーンはほとんど使わないくらいだな。

そうなんですね。

なんとかかんとかのせんだな

そうなんですね。前の方で引っ張って後ろから押して。

両方で。

二人でそれを。

うん。 要は親も捕まれば子もくっついてきたりするから。

そうなんですね。

一番おっかなかったのは家畜車で牛付けてきたら、大熊に岩船ってところがあんのね。そこまで来たらば、後ろから黒塗りの車に付けられた。私は。

黒塗りの車って、 何ですかそれ。

やぁさんかなんかがくっついてんだとおもった。黙ってついてくんだから。家畜車走って 私は軽トラなのね。

なるほど。

(画像:泥棒と疑われ、警察に声をかけられたという。)

その後ろついてくるのよ。ほんですぐ近くの交差点に来たら、 前の軽トラ止まりなさいって言われたっちゃよ。 そしたら私はグちゃっと牛の糞まみれの格好で、俺かって。車から落ちたんよ。

誰でした。

覆面パトカーよ。

パトカーなのに黒塗りの車に乗ってるんですね。

うん。

俺かあって、小汚い格好で止まってさ、

それは普通に怪しいと思って。

でしょ。

要は家畜車だからホロムがかかってるから泥棒かと思ったんじゃない。

なるほど。

うちの兄貴10 Mぐらい前だったんだけど、何だって言って。警察に何やってんだって言われたから兄貴が牛運んでんだって言った 。くっついて来いって言って、連れてきてみて納得してきたけども。

そうですよね。普通の泥棒にそんなことできないですよね。

それがね、一番気持ち悪かったの。おっかなかったの。

確かに。あの時って確か。

人いなかったの。何か難癖つけられたらどうすっぺていう感じ。赤い点灯をついてるならいいんだけど。

何もなし。

うん。それが一番おっかない。

他県の人でしたか。それともこの地域の。

いや、原町。

原町の人。

うん。

そのころまだ他県はいんねえうちだな。

そうなんですね。2011年ですか。

いやちげえ。2012か13だな。双葉、大熊の殺処分が始まったころだから。

2012年からでしたっけ。

遅いんだよね。

そうですよね。一番遅かったから。

俺がって言ったから。私も。

開いてどんな反応でした。

別に、うん、っていうくらいで。

そうなんですね。ちょっとなんか泥棒にしては、違うかなって思ったのかな。

思ったべ。私が落ちてからは。長靴履いてさ、長靴履いてさ小汚い格好してんだからさ。

プンプン臭うよ。

何よりの証拠ですよね。

うん。

牛小屋から押し付けてさ。そんなん乗ってくんだから。免許証見せろも何もないからさ。

もう見ればわかりますよね。

兄貴も牛運んでんだからって言って、やったけどさ。 

それは何ヶ月もかけて移動したんですね。

うん。そう。

60頭にその時なったんですね。

最初に80頭 だったね。

それは何年の時ですか。2013年

同じ年。すぐだね。

12か13ですよね。

うん.

13年かな。

13年に80頭

うん。

(画像:震災を乗り越えた牛たち。この目で震災当時の惨状を目の当たりにしたのだと思うと胸が痛い。)

その時には、放牧柵はそのままでしたか。 震災前のやつそのまま。

ううん。もう、無かった。

新しくやりましたよね。たしか、池田さん1人で建てたのですよね。

うん。そう。

そこをちょっとお聞きしたいんですけども

2012年かな。

2012年の何月。

4月

4月に、建てた。今までのやつは。もうぐちゃぐちゃに。この辺紐散乱しているから。

その時の杭ってそんなやつだったんですか。

杭は残ってた。

うん。木の杭と、要は商品で売っている杭なんですけども、原木の根。 

防腐剤塗りのやつ。

違う。角材のやつなのね。あとはグラスファイバー。 

角が木で、間がグラファイ。

うん。25 M おきに木の杭打つやつだった。

なるほど。25 m おき。それで間のグラファイポール竹倒れてたんですか。

線もなかったし、引きずって歩くからあいつら、足上げねえで。隣近所からここらいっぴ散らばって。

そうなんですね。

新しく何で作ろうと思ったんですか。

多少は回収したし、ポールは。栓はね吉沢さんがステンレスの線でいいとかなんとかかんとか言ったから。

今まではポリワイヤーだったんですか。

前はね。

それをステンレスの針金 に変えたんですね。

それは一人で施工しやすいくらいの太さ

うん。前もってポール立てておいて、餌をかせて、牛が集まってる時に、周りをぐるっと囲った。一気に。

それは何時間の作業ですよね。

そう。

それ一人ですか。

うん一人でやった。

一人ですか。

一人だったかな。若い人が手伝ってたのかな。

吉沢さんにくっついてきて。 希望の牧場の人。多分手伝ってたべ。23人でやったんだべな。一気にぐるっと。

牛はその時か囲われていることに気づきましたか。

気づいたんだか、気付かなかったんだか、とにかく。

でもではしなかった。

誰も出ようとはしなかった。 一生懸命餌を食べて。

その時の餌は。

ロール。真ん中さ、ドンと置いて

冬ですかねそうすると。

いや4月の半ば。 あれはなんだかんだ毎日来るようになったよね。

その時の水は。

川の水飲ませた。

側溝を中に入れる形で囲ったんですよね。

すごい使えるアイデアだなぁと思って。

うん。水がチョロチョロしか流れていないから、どっから来てんだかずっとたどってきたの。

なるほど。どこからでしたか。

野上の方からでした。 田んぼの中ずっとの紙から歩いてきた。

結構遠い道ですよね。

うん。まっすぐ行けば近いんだけど、田んぼの中行くんだから。

田んぼの真ん中を歩いて行ったんですか。

うん。

水はそのチョロチョロで大丈夫でしたか。牛達。

うん。囲わねえうちは大丈夫だった。結構大丈夫だね。

囲った後は大丈夫だった。

うん。

後は、ある程度の穴に突っついてきたから。ゴミなんか詰まってたら出なくなるから。

突っついて、ゴミなんか取ったりして流すようにしてきた。それである程度流れたりして。

何センチくらいの高さになってます。私が前見たときは5 CM くらいの高さだった 。

そんくらいね。水量が多いときはそのくらいの高さで勢いよく流れてるし、少ないとたらたらしか流れない。

1 cm くらい。

うん。

天気悪いと、水止まるからピタっと来なくなる。

その時はどうしてますか。

どうもしない。なるようにしかならない。

※【コニシ感想】震災を経験された方の「なるようにしかならない」という言葉は、何か心に去来するものがある。「なるようになるさ」「なんくるないさ」「ハクナマタタ」ではなく、「なるようにしかならない」。震災を乗り越えてきた方々は、苦境に陥る度に運命を受け入れてきたのである。

そうですよね。他に水ないですもんね。

後は雨水溜まったの飲んだり、じゅじゅじゅじゅじゅってやってる。

雨水はどこに。

地面に自分達のさ足元に溜まるじゃないじゃない。

溜まりますね。

それを飲んでるよ。どぶ水。

結構好きですよね。そういうの。

うん。

きれいな水があっても、そっち飲む時ありますよね。

うん。

その川の水って止まっても2日くらいですよね。今まで。

うん。

その飲む場所は幅7 CM で、長さ何 CM位でしたか。

そのノートくらいじゃない。

30 cm 位。

うん。

長さは1 m くらいですよね。

うん。

それが2、3か所くらい。2箇所か。

ちゃんと膝ついて飲んで。

そのまま。

ロールを真ん中において囲ってからずっと過去みっぱなし。その時は何頭くらい。

その時は50くらいかな。

餌はその時まだ大丈夫でした。

希望の牧場から分けてもらっていた。

何個くらいですか。

結構もらったね。何十個も。

特に餓死っていうことは。

ない。

その後餌はどうしましたか。

後はね機械買ってその辺近所の田んぼの雑草を刈ったり後は研究会ができてからは研究会から回してもらってた。

近所の田んぼの雑草うっていうのはそのままロールにして。

うん。

どういうものを買ったんですか。

よくわかんねえけど。

すぐ丸めるやつですか。

そう。一気に丸めるやつ。

YWH1500 ですね 。

希望の牧場から分けてもらったロールはとても大きかったからすぐで親戚に電話して 、うちよりも大きい機械を持っていたからすぐ買ってって言ったの。

もてなかったんですね。

もてなかった。すぐ大きいロール借りたの。

オイルローラーで。

だから助かった。

それ何センチ位だったんですか。150 。

 そこまでは無かったんだけど。一個だけすごいのあったな。

北海道サイズよりも。

それよりも大きいのが1個あったな。

もてないですよね。

うん。

自分で作っているのは何センチくらい。

90から120くらい。

今度はね、今は頭数少ないから一番小さいのにしてって。 90のにしてって。

120のを作ってたんですか。

とにかく90、110くらいなのかな。とにかく一番お大きいサイズで丸てって。

餌はそれで足りて、体格も見るとすごく色つやもいいんですけど他に何かあげてるものはありますか。

ない。

配合飼料は今あげていない。

ない。配合飼料はここ2年くらいあげていない。

研究会でたまに持ってきてくれるんだけど特別かせないな

あとテレビなんかでやって、 かぼちゃなんか支援物資できて、一生懸命砕いて貸せたね。

砕くのが結構大変だった。

どうやって砕きました。

スコップ。

なるほど。喜んで食べてました。

うん。

配合飼料も震災前の牛はすぐ食いついたのね。震災の後で食ったことない牛ていうのはなんだこれって感じ。食べて覚えてれば食べたけど、最初は何だこれって感じだったね。知っている子はバクバクバクバク食べていたね。

美味しいってわかってるから。

うん。

震災後の物資もとりあえず牧草は食べてたんですよね。

うん。

食べてる時に囲ちゃって、残りの牛は車で連れてきたやつ。勝手に入ってきたやつ。

自分から入った。

牛の所に集まりますもんね。 ちょうど低地だから、飛び込んで入れたんですよね。

あれには参った。一気に10頭近く入ったことあったんだもん。

仲良くしてましたか。

うん。 うちの実家の牛は実家の牛で固まってすまっこにいた。

そうなんですね。肩身ちょっと狭かった。

狭かったらしい。

そうなんですね。15頭ぐらいですよね。

何回にも別れてくるじゃない。でも自分の家のって分かるのね。仲間には。

すぐまっこに行って最初入った頃は一頭どうしバチバチ、バチバチってやって、寝たりする時はみんなしてすまっこにいってた。

うちの兄貴は言うのね。俺らの牛は家の竹やぶのところいたって。

そうなんですね。一番いい場所ではないんですね。隅っこは。

隅っこは餌からほど遠い。

実家の牛、体格が小さかったとかそういうわけではない。

(画像:体格よし、毛艶よし、どっしりとした池田牧場の牛。)

男の子達だったから体格は良かったもん。

後から来た親牛が胸群れに入るの遅いから、やっぱりこうなったんだべな。

後から来た親牛っていうのはメスですよね。

引っ込み思案で大人しく固まってたね。早く来た男達は群れに入ってたね。

それは双葉のですよね。

うん。

同じふたばでもオスたちは早く入っって。

すぐ近所まで散歩に来てたから。その辺の枠に入って捕まってたのがいたのよ。

双葉から。

うん、結構いるのよ何頭も。

そうなんですね。じゃあ見知ったところもあって。

うん。双葉の実家の方と行ったり来たりしてたのよ。散歩で。何キロも。

早く来たのは馴染むのも早かったね。締結してたのもいたし。お前他所もんだなって。

母牛がちょっと引っ込み思案だったんですね。

うん。

いつくらいに慣れた感じなんですか。ずっと端っこだったんですか。

端だね。すっと。

今も端っこですか。

ううん、今は完全に慣れた。

今は群れはまだ別れてます。双葉と。

ううん。今は分かれていない。

いつくらいから融合したんですか。

いつだろう。ここ2、3年だね

それまでは5グループに分かれていた感じ。

うちは3つだから3つのグループにわけて。

元々の池田さんの此処の牛と、御実家の牛とあと何ですか。

震災後に生まれたやつ。

そうですか。

でも適当にぐちゃぐちゃに混ざってたけどね。最初の頃80いたのも死んでくのもいたしから。後はみんな振り分けしたじゃない。数減らしたし。

その牛たちは入ってくるたびに争ったりありましたか。

あった。

どういう感じでしたか。

おめえどっから来たんだ。よそもんって感じで。

リーダーとリーダー同士が。

ううん。そんなもんじゃねえな。 

じゃあどんな感じですか。

入ってきたオスが入ったのかな。とにかく入っておめえ行って来いって何のかな。

肝試しみたいに。とにかく様子見に来てバチバチやってからだな。誰ってことはねえのかな。

とくにケガもなく。

弱くて負けた方は逃げてくかな。

パッっとすぐ行って終わりですよね。

ううん、追っかけてくやつもいたな。

すごく追っかけてくのもいたし。

オスですか。

いやどっちとは限らない。とりあえず一回はやるよね。入った時。

(画像:池田さんの語る内容からは想像もつかないほどに穏やかに見える牛たち。)

その後は平和的に。

決着つけば。

うん。問題なしで。

それで怪我した牛はいますか。

ほとんどいないね。

何頭かはいたんですか。

脱脚したのはいたんべ。

それは致命傷のものではない。

ではない。

顔がだらっと血だらけになってるのもいた。

じゃあ、除角牛はあまりいない。

うん。いない。うち除角してないから。震災前に2,3頭は角の先っちょ切ったやつはいたんだけど。

それだけですね。

牛は角があるものだから、除角はしないっていうのが牛の方針なんで。

メスとオスはどっちがリーダーでしたか。

メス。

やっぱそうですよね。

今もメスですか。

今はリーダーいないくらいかな。うちのリーダー今、老衰が見えてるくらいで、ガリガリだからもう、先が見えてるから。リーダーじゃないの。新しいのはいたんだけど、リーダーだったんだけど、若いのがグッと出てきたらリーダー負けてリーダーなくなった。1回復活したんだよ。そしたら今歳で駄目だ。

メスですよね。

よぼよぼのおばあちゃんになっちゃった。

何歳ですか。震災前生まれ。

うん。15、6にはなるのかな。よぼよぼで栄養にならないの。もう食べても。ガリガリで。

よく頑張っていきましたね。

こないだ埋まっていたのよ。ぬかるみにはまって。

本当ですか。

脱出できなくて。ユンボで釣り上げていた。

まじですか。ユンボで。

前足2本だけはまったのね。私全然気づかないで機械で牛洗っていたらモーモーて聞こえるから見たら埋まってた。

助けを求めてたんですね。

そう。 ちょうど後ろ足上げたから、ベルト通して、胸に入れて、吊り上げた。

よかったですねユンボがあって。

なかったら駄目だった。

希望の牧場の方も埋まって死んだ牛がいるって聞いたことあって、結構沼まっちゃう感じだと結構このへんまで。

うちのもこの辺まで埋まった時は脱出できなかったんだから。震えてた。ブルブルブルブル。

それは大丈夫だったんですか。

うん。

歩かなくなったからやべーかなと思ったらちゃんと歩いて。

歩いて、餌食べて、水飲んで。

うん。復活した。

食べてんのが栄養になんないから、水便だから、栄養にならない。

(画像:脂肪壊死してしまった牛について語る池田さん。)

夏に、震災の時に生まれた子をずっと連れてた親なんんだけど、今年の夏子が食べなくなったから病理解剖したのね。そしたら脂肪壊死だったのよ。

中が壊死

うん。食道が凄かったのよ。餌なんか食べれる状況じゃなかった。脂肪が絡まっちゃった。

それは草だけで脂肪が。

黒毛和牛ってなりやすいんだって。脂肪壊死。前もいたのよ何か一頭。解剖したら脂肪壊死と言われたのよ。解剖した時胃の内容物を見て先生たちが普通じゃないねってでも白血病ではない、腫瘍がないし喉の方、食道の方にぎっちりだったのでね。子の次はお前かって思ったの。そしたら持ちこたえて復活した。

すごい頑張ってますね。この牛。名前は何て言うんですか。

さやかって言うのよ。

さやかさんすごいですね。ど根性です。

アベ感想

震災により自宅にいることができなくなり各地を転々としたり非常にあわただしいなか避難先から牛の世話をしに行くのは非常に大変だと感じた。

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